歌葬

 屋根の上に残っていた雪が、お日様に当たって、しとしとと溶けていく。その雫を見ながら、リリックは大きな欠伸をした。季節は冬から、春へと変わろうとしている。柔らかい日差しが縁側へと降り注ぎ、リリックお気に入りの座布団を、ぽかぽかと照らしていた。その日光を全身に浴びて、リリックは目を閉じる。
 耳を澄ませば、雀の鳴き声が聞こえてきた。子猫の頃は、地面に降りた雀を追い回し、遊んだこともあったけれど、大人になった今では、そんなことはしない。甲高い合唱に耳を澄ませながら、もう一度欠伸をする。ここのところ、寝ても寝ても、寝足りない。その理由が、春を運んでくる暖かさだけでないことを、リリックは知っていた。きっと、すぐそこまで、時は迫っている。

「良い天気ねぇ。青空がどこまでも広がって、見ているこっちまで、空色に染まっちゃいそう」

 リリックが呟いた声は、そのまま猫の鳴き声になって、庭で遊んでいた雀の子を散らしてしまった。そのことに気がついて、リリックは少し尻尾を丸めながら、雀に詫びるように庭を見る。ゆっくりと瞬きを繰り返す瞼の上に、日光が煌々と瞬いていた。リリックの長く伸びた睫が、その光を受けて、座布団に細い影を作る。

「やあ、リリック。またここに居たんだ」

 影を見つめて、しばらく何も考えずにいると、ふいに後ろから名前を呼ばれた。リリックが首だけ曲げて振り返ると、笑い顔を浮かべた傑作が、眩しそうに空を見上げながら、リリックに近づいてきた。座布団の隣に座った傑作に、リリックは笑いかける。

「リリックは、この座布団がお気に入りだね」
「私が寝るには、丁度良い大きさなの。それに、ここにいれば、お日様は暖かいし、青空は見られるし、良いこと尽くしだわ」

 尻尾を揺らしながら口を開くと、傑作が頭を撫でてくれる。大きな手の平に顔を擦りつけて、リリックはその指を枕にした。寝心地はあまり良くないけれど、甘えるには丁度良い。傑作も、黙って指をリリックに貸してくれた。反対の手では、相変わらず頭を撫でてくれる。

「ほんとに暖かいなぁ。もう、冬も終わりだね」
「ええ。さっき雀の子が、庭で遊んでたのよ。私が鳴いたら、逃げちゃったけど」
「あはは、雀にとって、猫は天敵だからね。食べられると思ったんじゃない?」
「失礼ね。私は雀なんか食べるような、野蛮な猫じゃありません」

 拗ねた表情をしてそっぽを向くと、傑作がおかしそうに笑う。
 穏やかな時間は、雲が空を流れるように、ゆっくりと、船を漕ぐ速度で進んでいた。リリックは空を見上げながら、真上に浮かぶ、白い雲に乗る自分を想像する。あの雲は、いつか傑作が言っていた、大きな船の形に似ている。それならば、頭上に浮かぶ青空は、大きな海だ。リリックの大好きな魚も、たくさん泳いでいて、耳を澄ませば、心を洗うような波音が、絶えず聞こえてくる。そうして時間が経つと、リリックを名前も知らない、見たこともない世界へと連れて行ってくれるのだ。そこにはきっと、リリックが幼い頃にはぐれた母親や、生き別れた妹もいるに違いない。

「ねぇ、傑作。いつか、私を海に連れて行ってくれるって、約束したわよね」

 リリックが傑作の指から頭を外して、横を向くと、傑作は頷きながら、リリックを撫でる動作を止めた。温かい手の平がお腹の辺りに乗って、リリックはくすぐったそうに身を捩らせる。

「あの約束、もし叶えてくれるなら、私、春の海がいいなぁ。暖かい潮風に当たりながら、桜を見てみたいの」
「いいね。じゃあ、桜が咲いたら、みんなも誘って、海へ行こうよ。海を見ながらのお花見なんて、みんな、したことがないだろうしさ」

 話ながら、その光景を想像したのか、傑作の顔が、楽しそうに綻ぶ。リリックはその顔を見ながら頷いて、尻尾をぴんと上に伸ばした。春風が、リリックのやわらかい毛を揺らす。

「あ、今、ウグイスが鳴いたんじゃない?」
「え、本当?」
「ええ。確かに聞こえたわ。早春賦も、春を迎えられたのね」

 いつか、傑作たちが楽器を持ち寄って、『早春賦』を歌っていたことを思い出した。その後に、傑作がリリックにも見せてくれたウグイス笛によく似た鳴き声が、どこかの庭先から、春を呼んでいる。
 リリックの言葉に、傑作は笑顔を崩して、そして少しだけ、悲しそうに眉を垂らした。あの、『早春賦』を演奏した日のことを、傑作も思いだしたのだろう。リリックの上に乗っていた手が、僅かに強ばる。

「早春賦、か。懐かしいな。あの時ウグイス笛をくれた和菓子屋さん、今は新しく出来たショッピングモールに潰されちゃって、建物すら、残ってないんだよね」
「あれから、福袋商店街も、だいぶ変わっちゃったからねぇ……。はんせい堂が残っているのが、不思議なくらいよ」

 古びた建物と、今では時代遅れも甚だしい、紙に印刷された活字の数々。あの頃からお客の少なかったはんせい堂は、しおりの経営するネット部に支えられて、どうにか居場所を守ってきた。それに、どんなに時が流れても、一定数、昔を愛する者がいるのだ。どんどん新しい物へと形を変えていく時代の一方で、立ち止まり、過去を買い戻すように、古書を買っていく者がいる。はんせい堂は、そんな人間たちの、心の拠り所だった。

「そういえば、しおりは?一緒に居たんじゃなかったの?」
「うん。さっきまで一緒だったんだけど、今は子供たちと出掛けてるよ。家の中に閉じこもっていても、何も始まらないってね」
「そう……。元気になったようで、良かったわ。一時はどうなることかと思ったから」

 冬の日の朝。まだ雪の残るはんせい堂で、もくじぃの名を呼びながら、泣き叫んでいたしおりの姿が目に浮かぶ。何日も口を利かず、ご飯すら碌に食べていなかったしおりを思い出すと、リリックは胸の奥が締め付けられるようだった。普段は喧嘩ばかりしていても、やっぱり家族だ。距離が近かったからこそ、言いたくても言えなかった想いが、たくさんあるのだろう。

「傑作のおかげね。ちゃんと、もくじぃとの約束を守っているじゃない。『わたしがいなくなったら、代わりにしおりを支えてあげてくれ』って」
「ぼくは何にもしてないよ。本音を言えば、しおりちゃんを支えるどころじゃなかったんだ。……でも、思いきり泣いて、二人で今までもくじぃにしてもらったこと、してあげられなかったこと、全部打ち明けたら、ちょっと楽になったんだ。まだ、完全には、立ち直れていないけど」

 傑作が涙を我慢するように、視線を逸らして上を向いた。その辛そうな顔に見ない振りをしながら、リリックは外していた頭を、再び傑作の指の上に戻す。舌を出して指先を舐めると、傑作がこちらを見る気配がした。

「ねぇ、リリック」

 春風が、庭先から部屋の中へと流れ込む。春の匂いに混じって、懐かしい、リリックの大好きな匂いがした。初めて会ったあの日から、最期の時まで、ずっと変わらなかった優しい匂いが、座布団の繊維の間から、リリックの鼻孔に吸い込まれる。もくじぃの腕に抱かれて帰ったあの日を思い出して、リリックは瞼を閉じた。

「もくじぃは、幸せだったのかな?」

 傑作の呟きは、そのままリリックの疑問になって、開いた瞼の間から、空に昇っていった。その答えを確かめる術は、もうどこにもない。けれど、リリックは自信を持って、答えることが出来た。

「幸せだったに決まってるじゃない。あんなに長生きして、曾孫の顔まで見られて。私、内心驚いてたのよ。まさか、あんなに長く生きるなんて、思ってもいなかったから。――そのおかげで、私もこんなに、ここに留まっているんだけど」

 もくじぃが奥さんを亡くした日、泣きながら約束させられたのだ。リリックだけは、自分を置いていかないと。もくじぃの悲しい涙を見たのは、あの日が最初で最後かもしれない。

「そっか。そうだよね。もくじぃは、幸せだったよね」
「そうに決まってるでしょ。私を信じなさい。猫はなんでも知っているんだから」

 ピンと尻尾を揺らして、傑作の体を叩く。その動作に、傑作は微笑みを瞳に宿して、リリックにお礼を言った。いつの間にか、太陽が傾いて、リリックを包んでいた日差しが、明後日の方向へと傾いていた。それに気づいたリリックは、ゆったりと起き上がり、傑作の膝の上に移動する。

「ねぇ、傑作。今日も運んでくれるかしら。座布団も一緒にね」
「わかったよ。もう少ししたら、ミルクを用意するから、それまで寝ていれば?子供たちも出掛けてるから、静かに眠るなら、今がチャンスだよ」
「ええ、そうね。そうするわ」

 傑作に抱きかかえられて、リリックは庭から離れた、奥の部屋へと移動する。傑作の敷いてくれた座布団の上に丸まりながら、リリックは目の前にある、もくじぃの写真を眺めた。その隣には、懐かしい、あの白い日傘の似合う、黒髪の女性の写真も飾ってある。

「恋人たちの逢瀬を邪魔する趣味はないんだけど、私もそろそろ、疲れちゃったのよね。約束も果たしたし、しおりや傑作とも出会えた。もう、充分だと思わない?もくじぃ」

 写真に向かって話しかけて、それからリリックは大きな欠伸をした。玄関の方から、しおりと子供たちの声がする。静かに眠るはすだったのに、この様子じゃあ、それは叶わなそうだ。けれど、人間たちが、懐かしさを求めて、訪れるはんせい堂。このくらい賑やかな方が、似合っているのかも知れない。

「あの日だって、みんな揃っていたものね」

 目を眇めると、写真の向こうで、もくじぃが笑っているような気がした。その顔を見つめながら、リリックは両目を閉じる。
 母親とはぐれて、妹と体を寄せ合った夜。冷えた体を包み込むように、私を撫でてくれた優しい手の平。見たことのないくらい緊張していたもくじぃと、隣に寄り添う白無垢の花嫁。初めて人間の赤ん坊を見た日、そして、初めて死んだ人間を見た日。私を抱きしめながら、毎晩泣いていたもくじぃの顔。皺の増えた手に抱かれた、小さなしおりの姿。
 夢なのか、思い出を映した走馬灯なのか。リリックは目の前を流れる映画を見ながら、ゆっくり深呼吸をした。遠くで、リリックを呼ぶ声がする。まだ、しゃがれていない、ロックが大好きだった、透き通った声だ。その声に返事をして、リリックは走り出す。重たくなっていた足が、子猫の頃のように、軽やかになっていた。目の前に、海に似た、浩々とした空が広がっていた。雲で出来た船に乗りながら、リリックは暖かい腕に、顔を擦り寄せる。座布団から漂ってきたものと同じ、優しい匂いが、リリックを包んでいった。

「リリックー。ミルクとご飯、用意出来たよ」

 襖を開けて、傑作がリリックに呼びかけると、リリックは座布団の上で目を閉じたまま、動かなかった。よく寝ているな、と笑った傑作は、リリックを起こさないように、やわらかい毛をそっと撫でた。その時に気づいた異変に、傑作の顔から、笑みが消えていく。

「リリック……」

 猫が長生きなんて、するもんじゃないのよ。化け猫だって馬鹿にされるし、大切な人は、みーんな先に逝っちゃうし。でも……長生きをしたからこそ、見えるものがあるのよね。命はいつか終わっちゃうけれど、命が消えることはないの。例え、自分の命が終わってしまったとしても、誰かの中で、命は永遠に灯り続ける。それを教えてくれたのは、もくじぃなのよ。お嫁さんを貰って、子供が生まれて、そして、孫のしおりも生まれて。命の連鎖を、私はずっと近くで、もくじぃと一緒に見てきたの。
 もくじぃが逝ってしまった夜、布団にくるまって泣く傑作に、リリックはそう言った。リリックだって、悲しくて泣きたいはずなのに、「猫には悲しい時に涙を流す習慣がないの」なんて強がって、決して傑作たちの前で、悲しみを見せることはなかった。最期まで、リリックは、笑顔を絶やさなかった。

「お疲れ様、リリック。ゆっくり休んでね。今度は、誰も、リリックの夢を、邪魔しないから……」

 吃りながら落とした言葉に、涙が混じり、リリックを濡らしていく。まだ暖かさの残る体を抱きしめて、傑作はしゃくり泣いた。その声を聞いたしおりが、心配そうに、襖から顔を覗かせた。

「どうしたの?傑作くん」

 窓の向こうで、ウグイスが鳴いた声を、傑作は確かに聞いた。春はそこまでやって来ている。もうすぐ桜も咲くだろう。桜が咲き誇る海は、どこにあるのだろうか。
 泣きながら蹲るしおりの肩を抱いて、傑作は無理矢理微笑んだ。傾いた日差しがリリックの顔に当たり、穏やかな笑顔を、そっと照らしている。頬から落ちた涙が体に当たると、リリックの尻尾が、ゆっくりと揺れた気がした。