とりあえず結婚しようよ

 朝は嫌いだ。あたしから全てを奪っていく。
 寝ぼけた瞼は、まだ睡眠を欲しがっているのに、窓から差し込む朝日が起床を促すし、太陽の光は、夜の暗闇に埋もれていたいあたしから、星空を消し去って、鬱陶しいくらいに体を照らしていく。

「しおりちゃん、朝だよ」

 あたしは朝が嫌いだ。だから、耳元の優しい声に聞こえない振りをして、目を瞑り続ける。
 シーツの中で、傑作くんの手が、あたしを揺さぶるように肩に触れた。もうとっくに起きているけれど、鼻先で感じられる匂いを失うのが嫌で、傑作くんを困らせるのを知りながら、狸寝入りを続けた。あたしの名前を呼ぶ声が、だんだんと大きくなる。

「しおりちゃん。――困ったなぁ。今日は少し、早めに出ないといけないんだけど」

 時計を確認するためか、傑作くんの体が、あたしから離れて、起き上がる気配がした。それを阻止するために、胸の前で曲げていた両腕を伸ばして、傑作くんに巻き付ける。突然の拘束に、傑作くんがこちらを見るのを感じた。狸寝入りが通じるのも、ここまでだ。

「しおりちゃん、起きてたの」
「まだ、起きちゃダメ。離れたくない」
「そうは言っても……今日は生放送の収録があるんだ。遅刻はできないよ」

 傑作くんは何も悪くない。全部あたしのワガママなのに、まるで自分が全て悪いというように、傑作くんが眉を垂らした。その顔に罪悪感を覚えながら、駄々をこねる子供さながらに、裸の胸に顔を擦り寄せる。
 朝は嫌いだ。あたしから傑作くんを奪っていく。
 歌手の仕事が軌道に乗って、メディアでの露出が増えてきた傑作くんとは、以前よりも会える回数が少なくなった。今日だって、ほとんど一ヶ月振りに、顔を合わせて話すことができたんだ。
「仕事とあたし、どっちが大事なの?」なんて、浅はかに問い詰めるつもりはない。けれど、寂しいのも事実だ。たった一夜抱き合っただけじゃ、この空しさを満たすことはできない。

「ごめんね、しおりちゃん」
「謝らないでよ。お仕事だもん、仕方ないわ」
「また、時間ができたら、必ず連絡するから」

 そう言った傑作くんは、名残惜しそうにするあたしの頭を撫でて、ベッドから起き上がった。辺りに散らばっていた服を身に纏いながら、部屋を出る準備をする。あたしはシーツにくるまったまま、黙ってその背中を見つめた。手を伸ばして、力任せに抱きつけば、このまま一緒にいてくれるかも。なんて、馬鹿みたいな妄想をしてみたりする。

「ホテルのチェックアウトまで、まだ時間はあるけど、しおりちゃんはどうする?一緒に出ていく?」

 シャツを羽織って、腕時計を確認しながら、傑作くんがあたしを振り返った。その声に体を起こして、シーツを胸元まで引き上げながら、思考を巡らせる。

「……やめておくわ。何かあったら嫌だから」
「何かって?」
「週刊誌とか、そういうの。仮にも傑作くんは芸能人なんだから、ホテルから女と一緒に出て行くなんて、避けておいた方がいいと思うの」

 あたしがせっかく気を遣ったのに、傑作くんは顔を顰めながら、納得いかないというように首を曲げた。物言いたげな顔が近づいて、荷物を確認しながら、傑作くんがベッドに腰かける。

「まあ、事務所から週刊誌には気をつけるように言われてるけどさ、ぼくとしおりちゃんは恋人同士なんだよ?写真を撮られて、何かまずいことでもあるの?」
「あのねぇ。そんな言い訳が通じたら、世の芸能人たちは苦労しないわよ。いくら恋人同士でも、婚前の男女が一緒にホテルに泊まったら、いい顔をしない人たちもいるわけ。――もう、せっかく人気が出てきたんだから、もう少し気をつけなさい。芸能人なんて、一度のスキャンダルで、全てを失うこともあるんだから」

 暢気な傑作くんに呆れながら、手を伸ばして、シャツのボタンを止めてあげた。
 彼女であるあたしが言うのもなんだけど、傑作くんには、女性のファンが多い。しかも、傑作くんは、爽やかな好青年シンガーとして売り出しているんだ。いかがわしいホテルでなくとも、あたしと一緒の写真が撮られれば、その後の惨劇は、目に見えている。せっかく叶った傑作くんの夢を、あたしが潰すわけにはいかない。

「ふーん。芸能人って、大変だね。ぼくは、こんなにしおりちゃんの事が好きなのにな」

 他人事のように呟いて、傑作くんがあたしの頬を撫でた。甘い仕草も、今は何だか切ない。秘めた逢瀬を重ねる恋に憧れたこともあったけれど、やっぱりあたしは、大手を振って傑作くんとデートがしたかった。常に人目を気にしながら生活するなんて、耐えられない。

「……しおりちゃん、さっき、婚前の男女が一緒にホテルに泊まったら、って言ったよね」

 ネクタイを締めた傑作くんが、思いついたように顎を上げた。その声に頷いて、様子を伺うように、傑作くんを見上げる。何かを思案するように視線を上げた傑作くんが、いきなり笑顔になって、あたしに顔を向けた。何事かと思い寄る前に、傑作くんが口を開く。

「だったらぼくたち、結婚しちゃえばいいんじゃない?」

 満面の笑顔で言われた言葉に、ぽかんと、音がしそうなほど大きく口が開いた。
 言葉の意味を理解するまでに数秒かかり、理解してからも、声を出すのに時間が掛かってしまった。ぱくぱくと唇を開閉させながら、赤く染まっていく頬を実感する。

「な、な、何を言ってるの!?」
「だって、夫婦なら、しおりちゃんとどこに行こうと、文句は言われないだろ?それに、結婚すれば、ずっと二人でいられるし、こうしてコソコソ会わなくても、一緒に住んじゃえばいいんだから。もう、しおりちゃんに寂しい思いをさせることも、なくなると思うんだ」

 名案を思いついたというように、傑作くんが得意げな顔をする。言っていることは正しいけれど、今のあたしには理解ができない。
 突然のことに言葉を返せず、黙っているあたしに、その笑みが崩れて、顔に不安の色が差した。誰が見ても真っ赤であろうあたしの顔を覗き込んで、悲しそうに眉を垂らす。

「しおりちゃん、ぼくと結婚するの、嫌なの?」
「い、いやじゃないけど!」

 今にも泣き出しそうな視線に、慌てて返事をする。吃りながら出た声は、裏返って、拍子抜けな音がした。
 結婚するのは、嫌じゃない。それはあたしの小さい頃からの夢だったし、相手が傑作くんなら、願ったり叶ったりだ。
 けれど、夢だったからこそ、あたしにだっていろいろ憧れがあった。海の見えるリゾートホテルだとか、夜景の見えるレストランだとか、遊園地のお城の前だとか。そんなロマンティックなシチュエーションとまではいかなくても、もう少し、雰囲気があるとか、指輪を渡されるとか、特別なものを想像していた。少なくとも、何の記念日でもない朝のホテルで、片方が服を着ていて、片方は裸だなんて、間抜けな格好のまま、この瞬間を迎えるなんて、一度も考えたことはなかった。

「やった!しおりちゃん、今日からぼくのお嫁さんだ!!」

 戸惑うあたしを他所に、傑作くんはあたしを抱きしめて、持ち上げんばかりの力で、自分の方に引き寄せた。体から離れていくシーツを手繰り寄せながら、慌てて傑作くんの体を押し返す。喜びを分かち合うのは、まだ早い。

「ま、待って、傑作くん」
「なに?しおりちゃん」
「ホントに、あたしと結婚するの?」
「うん。しおりちゃんは、嫌?」
「嫌じゃない。嫌じゃないわ。でも、もうちょっと、ね?こんな突然言われるなんて、思ってなかったから……」
「本当は、ずっと前から言おうと思ってたんだ。でも、なかなかタイミングもなかったし、丁度良いかなって」
「丁度良いって……でも、もう少し……場所とか、言葉とか、考えたりは――」
「しおりちゃん、やっぱりぼくと結婚するの、嫌なの?」
「それは違うの!違うんだけれど……」
「ぼくのお嫁さんに、なってくれる?」
「なりたい。もちろんなりたいわ。だけど……」

 困惑するあたしに気がついていないのか、傑作くんはあたしの返事を聞いて、いっそう嬉しそうに微笑んだ。少年のように無垢な顔に、抵抗する気も削がれて、そのまま傑作くんに抱きしめられる。傑作くんは、尚もあたしを抱き寄せながら、「大好きなしおりちゃん」なんて甘い言葉を言っているんだから、埒が明かない。結婚に夢を見ているのは女だけなんて、聞いたことはあるけれど、ここまで拍子抜けな展開だと、喜ぶ暇も何もなかった。

「しおりちゃん、これからもよろしくね」
「……そうね、よろしく。傑作くん」

 期待とは違う状況に落ちていた肩も、心の底から嬉しそうな傑作くんの顔を見ていると、どうでもよくなってしまった。それに、捻られた言葉よりも、こっちの方が、あたしたちらしいのかもしれない。お城の前で跪く傑作くんなんて、考えてみれば、そっちの方が間抜けだ。

「あ……、ごめんね、しおりちゃん。そろそろ行かないと」

 やっと喜びに浸れてきたのに、大嫌いな朝が、またあたしから傑作くんを奪おうとする。部屋に差し込む太陽の光が、眩しそうにあたしたちを照らした。
 抱きついていた腕を離して、一度だけキスをせがんだ。重なった唇と一緒に遠のく姿を見上げながら、力の抜けた頬を上にあげる。

「行ってらっしゃい、傑作くん」

 できることなら、それらしい約束の証が欲しいけれど、傑作くんが今日も無事に帰ってきたら、あたしはそれで良いのかもしれない。
 ドアを開けながら手を振る傑作くんを見送って、交わしたばかりの約束を、頭に思い描いた。ひとりでニヤけている唇が、あたしの気持ちの全てだ。
 だらしない表情を隠すようにシーツに潜り込んで、微かに残る傑作くんの匂いを吸い込む。これから朝が来る度に、この日を思い出すのだろうか。そう考えると、大嫌いだった朝が、少しだけ好きになれるような気がした。
 まだ何も付けられていない左手を、窓に翳す。煌々と照りつける朝日が、薬指の周りで、輪のように輝いた。