誰も知らない花言葉

 ここのところ、福袋商店街が色めき立っている。いや、はんせい堂が色めき立っていると言った方がいいのかもしれない。
 今日から五日前の二月九日、あたしたちは福袋商店街のバレンタインイベントに、バンドで参加することになっていた。けれど、直前になってゴージ君とダツジ君に他の予定が入ってしまい、やむなくはんせい堂はしおりバンドとしてではなく、傑作くんがソロで参加することになった。
 傑作くんの夢は自分の歌のCDを出すことだし、これも夢が叶ったときのための、予行練習になればいいかな、なんて、簡単に送り出したのがいけなかった。バレンタインに合わせて、傑作くんが歌った恋の歌は、傑作くんの歌声を聞き慣れているあたしでも、うっとりしてしまうくらい、素敵なものだった。その歌声を聞いた人たちが次々に足を止め、イベント会場がちょっとした騒ぎになったくらいだ。その時は、傑作くんの歌が大勢の人に聞いてもらえたのが嬉しくて、傑作くんと一緒に、笑いながら帰ったのだけれど、それからというもの、はんせい堂の周りには、女性のお客さんが増えるようになった。
 用もないのに訪れる人、もくじぃと世間話をして帰る人、大胆にも、傑作くんに差し入れをあげて帰って行く人。そのほとんどが、福袋商店街に昔から住む、おばあちゃんやおば様たちなんだけれど、たまにあたしとそう年が変わらないくらい、若い人がこそこそとはんせい堂の窓を覗いているのだから、油断できない。
 スーパーの帰り道、大きなレジ袋を手にぶら下げながら、見慣れた女の子の姿を見つけて、あたしは鼻から大きく息を吐いた。
 あの子、また来てる。
 バレンタインイベントの後から、ほぼ毎日見ているから、もう顔は覚えてしまった。でも、名前は知らない。年齢だって、詳しくはわからないけれど、見た感じだと、あたしよりも少し年上みたいだ。髪が長くて、大人っぽい容姿をしているのに、はんせい堂の周りを行ったり来たりしている様子は、まるで、初めての恋に戸惑っている少女のようだった。普段ならきっと、気にも留めない他人の動作なんだろうけれど、こう毎日同じ事を繰り返されると、あたしも気にせずにはいられなくなる。どうせなら、本のひとつでも買ってくれればいいのに。そんなことを考えながら、わざとその子の方を見ないようにして、はんせい堂の扉に手を掛けた。

「あ、あの!」

 ガチャリとドアノブを捻った時に、突然後ろから声をかけられる。驚いて振り向くと、さっきの女の子が、遠慮がちな視線であたしを見つめていた。近くで見ると、目が大きくて、背もすらっとしていて、割と整った外見をしていることがわかった。真ん丸い黒目でじっと見つめられて、思わずこっちも顎を引いてしまう。

「はんせい堂の人、ですよね?」
「あ……はい」
「こ、これ!……その、平積傑作さんに、渡してもらえないでしょうか?初対面で、厚かましいお願いだって、わかってはいるんですけど……」

 頬を上気させて、あたしに告白しているわけでもないのに、視線は怯えるように定まらなくて。この女の子の姿は、どこから見ても、“恋する乙女”そのものだった。そして、手渡された四角い箱を見て、確信する。これは、この子から傑作くんへの、バレンタインのチョコレートだ。しかも、包装を見る限り、手作りの本命チョコ。色々言いたいことを我慢して、黙ってそのチョコレートを受け取った。軽くなった自分の手に、その子の顔が、ほっと緩む。

「わかったわ。ちゃんと渡しておきます。……あの、貴方のお名前は?」
「あ……良いんです!名前とか、別に、お返しが欲しいわけじゃないんで!――彼に気持ちが伝われば、それだけで満足ですから」

 言いながら、ちらりと古書部の方を振り返った彼女の視線に、チョコを受け取ったことを後悔した。何度も頭を下げながら駆けていく女の子を見送って、玄関の前で、呆然と立ち尽くしてしまう。
 傑作くんへの、本命チョコレートかぁ……。
 まさか、傑作くんがあたし以外の女の子から、チョコを貰う日が来るなんて。そんなことを考えてしまうあたしは、きっと、酷い女だ。でも、傑作くん相手なら、仕方ないとも思う。あたしが傑作くんと知り合ってから、もう何年にもなるけれど、その間、傑作くんに女の影があったことは、一度もなかった。彼女どころか、片思いの気配すらないのだ。あまりの色恋のなさに、見てるこっちが心配になってしまうくらい、傑作くんの周りには“恋”というものが存在しなかった。だからどこかで、傑作くんは大丈夫だと思っていた。何が大丈夫かなんて、自分でもよくわからないけれど、とにかく大丈夫だったんだ。
 ただいまも言わずにはんせい堂に入り、そのまま台所へと直行した。テーブルの上に、買ってきたばかりのラズベリーやイチゴチョコを並べて、その隣に名前も知らない女の子の、本命チョコレートを置く。
 このまま、黙ってゴミ箱に捨てちゃおうかしら。
 そんなデビルっちの囁きが聞こえて、あたしはぶんぶんと首を横に振った。いくらあたしだって、他人の恋心を無碍にするようなことはできない。それに、傑作くんに本命チョコを渡す人がいたからといって、あたしに何の関係があるんだろう。はんせい堂の周りに集まるおば様たちだってそう。色恋の“い”の字もなかった傑作くんに、恋の気配があるのなら、それは喜ばしいことじゃない。長い間冬だった傑作くんの恋人生にも、やっと春が来たんだわ。そんな上から目線の感想を並べながらも、心の内は、もやもやとして仕方なかった。
 淀んだ雲を取り払うために、頬を叩いて冷蔵庫の中にしまってあったタルト生地を取り出す。すっかりお椀型に固まっているそれを取り出して、お皿の上に並べた。まな板の上でイチゴチョコを刻み、湯煎に掛けながら、溶けていくチョコレートに、これを食べるであろう人の笑顔を思い浮かべる。

「ちょっと、チョコのことで頭がいっぱいになっちゃって」

 そんな言葉をもらすほど、チョコレートが大好きな傑作くんは、このチョコを、きっと笑顔で食べてくれるだろう。今までならそれで満足だったはずなのに、どうしてか今日はもやもやが晴れない。第一、あたしはどうして、こうやって傑作くんのためだけに、チョコレートを作っているのだろう。いくらチョコ好きな傑作くんのためだって、バレンタインの義理チョコは、とっくに渡していたはずだった。スタンダードなミルクチョコだったけれど、もくじぃや五四九くんたちと一緒に、笑顔で受け取ってくれたし、あたしのバレンタインは、それで終わっていたはずだった。

「そろそろ本命のチョコ作りたいな~」

 あの時、義理だらけのチョコレートに囲まれながら、ぼやくように呟いた自分の言葉を思い出す。あたしもあの女の子のように、好きな人の姿を浮かべながら、チョコレートを作りたかった。たった一人の大切な人のために、心を込めて甘いチョコレートを作るなんて、ロマンス元年には欠かせないイベントだ。
 溶けきったピンク色のチョコが、ゆっくりとタルトの器に沈んでいく。甘い香りに、傑作くんと見た、チョコレート図鑑の写真が重なって、胸がきゅんとなった。あの時、傑作くんが嗅いでいたリップクリームの香りも、これと同じような、甘酸っぱい香りだったのだろうか。
 そんなつもりはないのに、頭の中が、傑作くんでいっぱいになっていく。どうしてだか、あの女の子と、傑作くんが並んで歩いている姿が、想像できなかった。綺麗な人だったし、きっと傑作くんも好きになりそうな、優しそうな女の子だったのに、傑作くんの隣にその子の姿を置くと、途端に胸が破裂しそうになった。目の前を並んで歩く二人の間に手を入れて、バラバラに引き裂いてしまいたかった。
 チョコの中にラズベリーを並べながら、大きなため息をつく。どうしてこんな、醜い想像しかできないんだろう。あの女の子や、傑作くんの恋が叶うことが、そんなに嫌なのだろうか。あたしには関係ないのに。このチョコレートも義理チョコで、ただ、傑作くんがチョコを好きだと知ったから、特別に作っているだけなのに。



 後片付けも終わり、冷蔵庫で固めて完成したタルトをお盆の上に乗せて、ゆっくりと階段を上がっていく。物干し台の方から、イベントの時と同じ、恋の歌が聞こえてきた。
 そういえばこの歌、片思いをしている、男の子の歌なのよね。
 だんだんと大きくなっていく歌声に耳を傾けながら、タルトの横に乗せた箱を見つめる。この曲を聴いて、あの子は傑作くんに、恋をしたのだろうか。だとしたら、あたしはこの歌が、ちょっぴり嫌いになってしまう。
 物干し台の扉を開けると、春が訪れたような暖かい風が、すうっと頬を撫でた。この間まで雪が降っていたというのに、季節はどんどん形を変えていく。あたしの姿に気づいた傑作くんが、ギターを置いて、笑いながら名前を呼んでくれた。その表情に、とくんと、聞いたことのない鼓動が胸の中で響く。

「わあ!どうしたのそのケーキ!美味しそう!!」
「ケーキじゃなくて、ベリーチョコタルト。ほら、傑作くん、前にチョコレート図鑑を見ながら、食べたそうにしてたでしょ?だから、バレンタインのプレゼントに、わざわざ作ってあげたの!」

 弾んでいる心臓に気づかれないように、なんてことのない振りをしながら、タルトを切り分けて、傑作くんに渡した。その間に、さりげなくチョコレートの箱を、自分の横に隠す。傑作くんはタルトに夢中で、あたしのそんな動作には気づいていないようだった。大きな口の中に消えていくタルトを見て、思わずこっちまで笑ってしまう。

「傑作くん、慌てて食べ過ぎよ」
「だって、こんなに美味しいタルト、生まれて初めて食べるんだもの。もくじぃや五四九くんたちに取られる前に、食べちゃわないと」
「大丈夫よ。元から傑作くんのためだけに作ったんだから、他の人にはあげません」
「ぼくのために?」

 口の端に付いたチョコを指で拭いながら、傑作くんが目を丸くしてこちらを見つめた。聞き返されたワードに、勝手に顔が引き攣ってしまう。もやもやとした雲が、渦を巻いて激しさを増していた。

「そ……そうよ。傑作くん、チョコで頭がいっぱいになるくらい、チョコレートが好きなんでしょう?だから、傑作くんにだけ、特別」

 視線を逸らして、斜め上を向きながら言った言葉に、傑作くんがふっと笑った。優しいその顔に、また、鼓動が聞き慣れない音を鳴らしていく。

「ありがとう、しおりちゃん。あの時の事、覚えていてくれたんだ」
「当たり前じゃない。あんなに物欲しそうな顔で見られたら、忘れたくても忘れられないわよ」
「あはは。だってしおりちゃんの作る料理は、どれも絶品なんだもん。この前のチョコレートも、今日のタルトも、すっごく美味しい」

 タルトを掲げて微笑む傑作くんに、広い青空が重なって、一枚の綺麗な写真のように見えた。手作りのお菓子を褒められたことよりも、その嬉しそうな表情に、心が浮き立っていく。
 にやけていく顔を窘めるように、膝の横に置いた手に、チョコレートの箱がこつんと当たった。その感触に、思考が一気に現実に戻されて、晴れかけていた靄が、また心の空に戻ってくる。

「あとね、傑作くん。これなんだけど……」

 このまま、渡さずに捨てるわけにはいかない。覚悟を決めて、傑作くんに、女の子から託されたチョコレートを手渡した。タルトを食べ終えた傑作くんは、不思議そうにその箱を見つめて、そして箱の意味を求めるように、あたしをじっと見つめた。その視線に、女の子の姿が重なって、胸が苦しくなる。靄が目の前を覆って、傑作くんの姿が、よく見えない。

「しおりちゃん、まだぼくに、チョコレートをくれるの?」
「ううん。それ、あたしからじゃないの。名前は知らないんだけど、傑作くんに渡してって、女の子に頼まれて。今日、バレンタインだから」

 言いながら、震えていく声に、髪で顔を隠しながら唇を噛んだ。どうしてこんなに、傑作くんの顔を見るのが怖いんだろう。わからない。でも、あたし以外の女の子から貰ったチョコにも、さっきみたいな笑顔を返されたら、あたしはもう、この場に立っていられなくなる気がした。続く声に耳を塞ぐように、目をぎゅっと瞑る。

「たぶんね、それ、本命チョコよ。良かったわね、傑作くん。今年のバレンタインは、義理チョコだけじゃなくって」

 上擦っている声に、自分が動揺していることが、嫌でもわかってしまった。そんな私の顔を見ながら、傑作くんは一度箱に視線を落として、何も言わずに箱を置いてしまう。あまり嬉しそうでないその顔に、傑作くんの真意を探るように顔を覗き込んだ。さっきまでの笑顔が嘘のような、固く真顔に近い表情に、思わず息を呑む。

「……傑作くん、嬉しくないの?」
「え?」
「だって……せっかく本命チョコを貰ったのに、笑ってないから。さっきまでは、あんなに楽しそうだったのに」

 何か、おかしなことをしてしまったんだろうか。不安げに眉を垂らすあたしに気がついたのか、傑作くんは結んでいた唇を解いて、朧気に上に釣り上げた。笑みを浮かべる口とは反対に、目尻は悲しそうに歪み、睫の先が触れ合いそうになっていた。初めて見る傑作くんの切ない表情に、息をするのを忘れてしまう。

「チョコを貰ったのは嬉しいよ?でも、この女の子の気持ちには、応えることができないからさ」
「え?」

 止まっていた呼吸が、反射的にもれた声に押し出される。大きく吸い込んだ息が、お腹の中で止まって、嫌な汗を拭きだしていった。ぐるぐると、渦巻いていた靄が雲に代わり、嵐の前触れのようにあたしの空を覆い始める。ドキドキと、不穏な鼓動が耳元で脈打っていた。

「傑作くん、誰か好きな人がいるの?」

 黙って頷いた傑作くんに、雲が雨を降らし始める。どうしてこんなに動揺しているのか、自分でもわからなかった。色恋の“い”の字もないと思っていた傑作くんに、恋の相手がいたことに驚いているのか、それともあの女の子が、告白する前から失恋していたことに驚いているのか、それともその両方とも、あたしの雨とは関係がないのか。一瞬のうちに、たくさんの思いが頭を駆け巡り、自分が何をしているのかわからなくなった。何も言えずに渇いていく唇を舐めとって、必死に次の言葉を探す。何を言えば正解なのか、あたしには見つからなかった。

「で、でも!そのチョコをくれた女の子が、傑作くんの好きな子だって可能性もあるんじゃない?」
「それはないよ。実はね、ぼくが好きな女の子からは、もうチョコを貰ってるんだ。義理チョコだって、はっきり言われちゃったんだけど」

 自嘲するように笑う傑作くんに、降っていた雨が氷に変わり、雹のように胸を突き刺していった。
 一体いつの間に、好きな女の子から、チョコレートを貰っていたんだろう。あたしがチョコを渡すように頼まれたのは、今日会ったあの女の子だけだし、それまでの間、傑作くんが女の子と話しているところを、あたしは見たことがなかった。けれど、あたしだって四六時中傑作くんのことを見張っていたわけじゃない。配達の途中とか、あたしが出掛けている間とか、タイミングはいくらでもあっただろう。
 傑作くんの中で育まれていた秘密の恋に、雹が刺さった心臓が、奥の方から凍り付いていった。まるで、今まであたしのしてきたこと全てが、無駄になっていくような気分だった。

「そんな……傑作くんに好きな人がいるなんて、あたし、知らなかった」
「まだ、誰にも言ってなかったからね。それに――どうせぼくの、永遠の片思いだろうし」

 傑作くんが、お皿の上に残っていたタルトの欠片を摘まんで、赤い舌でちろりと舐めとった。大人びた仕草に、あたしの知らない傑作くんが増えていく気がして、ますます悲しくなる。青空はいつの間にか夕焼けに変わって、傑作くんの顔を、緋色に照らしていた。憂いを帯びたその色に、傑作くんの恋心が重なって、喉の奥が痛くなる。

「どうして、永遠の片思いなの?義理チョコぐらいで、悲観しすぎよ」
「うーん。でも、ぼくはきっと、その子にとって恋愛対象じゃないから。いつも話して、仲良くしてくれているけど、男性としては、見られていないんじゃないかな。『結婚したい』とか、『本命チョコを作りたい』とか、ぼくの前でも、よく言ってるし」

 無理に笑顔を浮かべながらも、傑作くんの表情は、とても辛そうだった。傑作くんに、そんなに親しい女の子がいるなんて知らなかった。けれど、歪んだ傑作くんの笑みに、その子に対する気持ちが、本気なんだと知る。
 もう黙っていればいいのに、凍ったままのあたしの心は、傑作くんに、何かを聞かずにはいられなかった。その女の子が誰なのかを知れば、きっと泣いてしまうのに、口が勝手に動いてしまう。

「傑作くんは、そのままでいいの?相手がいないなら、傑作くんにだって、チャンスはあるじゃない」

 どうしてこんな、傑作くんの恋を後押ししようとしているのだろう。言ってる言葉とは反対に、心の中では、醜い気持ちでいっぱいになっていた。傑作くんがこのままその女の子に告白して、振られてしまえばいいと、どこかで思っていた。

「いいんだ。今のままでも。例えその子が他の誰かを好きになって、そのまま結婚してしまったとしても、その子が幸せなら、ぼくはそれでいいと思えるんだ。ぼくはその子のことがとても好きだけれど、想いを伝えて、その子を困らせてしまうくらいだったら、何も知らずに、ずっと、笑っていてほしい。なによりも、その子が笑っているのを見るのが、ぼくは大好きなんだ」

 独りよがりなあたしの心を弾くように、傑作くんは、夕焼けを見上げながら、空に向かって微笑んでいた。
 傑作くんに、ここまで幸せを願われているなんて、その女の子は一体、どんな顔や性格をしているのだろう。どんなことをすれば、ここまで傑作くんに、想われるのだろう。
叶わない想いを抱えながらも、その子の幸せを願える、傑作くんが眩しかった。傑作くんの恋人でもないのに、傑作くんを誰かに取られることが、嫌でたまらないあたしには、もう、その子に敵う所なんてない。
 もやもやの正体は、傑作くんに対する恋心だったのかと、今頃になってやっと気づいた。我ながら、気づくのが遅すぎだ。バレンタインが終わると同時に、あたしの恋も終わってしまう。
 泣きそうになる顔を俯かせていると、ふいに、傑作くんの手が髪に触れた。潤んだ瞳のまま、その顔を見つめてしまう。気持ちを伝えても、困らせるだけなのに。

「しおりちゃん、泣いてるの?」
「……泣いてないわよ。ちょっと、欠伸が出ただけ」

 視線を逸らせながら、バレないように手の平に爪を食い込ませた。こんな痛みだけでは足りないと、唇も噛みしめる。血が出そうな、その力を遮るように、傑作くんの指が、唇に触れた。薄い皮の向こうに感じた傑作くんの熱に、体が跳ね上がってしまう。

「っ、な、なに!?」
「あ……ご、ごめん!なんか、チョコレートみたいだったから」
「チョコレート?」
「うん。さっきのタルトの中に入っていた、イチゴチョコ。――なんて、気持ち悪いよね。ごめんね、困らせちゃって」

 そういう傑作くんの顔が、本当に悲しそうで、流れそうになっていた涙が、引っ込んでしまった。
 傑作くんに想われている女の子が、憎くて、羨ましくて、たまらない。せめて、その子に傑作くんの全てを取られる前にと、指先を傑作くんの唇に伸ばす。何も付いていないそこに触れて、人差し指に全神経を集中させながら、ゆっくりと指を動かした。面喰らったように固まる傑作くんに咎められる前に、その指を自分の舌で舐めとる。初めての間接キスだって、今のあたしには、物足りない。

「し、しおりちゃん」
「……イチゴチョコ、唇に付いてたわよ。誰も取らないって言ってるのに、慌てて食べるから」

 髪で顔を隠しながらそう伝えて、逃げるようにお盆を手にとって立ち上がった。ドアを引いて家の中に入ろうとすると、後ろから肩を掴まれる。前髪の隙間から傑作くんを見上げると、逆光で夕陽が当たっていないのに、その顔が、赤くなっているように見えた。肩を掴まれただけなのに、全身を縄で縛られたように、動けなくなる。

「あのさ……、さっきのイチゴチョコ。ベリーチョコタルトも、やっぱり義理チョコ?それとも――」

 近くで聞こえる傑作くんの声に、目を瞑って耳を閉ざす。そんなことを聞いて、何になると言うんだろう。どうせ、本当の気持ちを伝えたところで、その気持ちには、応えてくれないくせに。

「……知らないっ!!」

 振り払うように傑作くんの体を押して、勢いよく階段を駆け下りた。傑作くんにチョコをあげた女の子のことも、傑作くんに想われている女の子のことも、あたしの恋心も、全部全部、忘れたかった。
 誰もいない台所へ駆け込み、器の中に残っていた、小さなラズベリーを、傑作くんの唇に触れた人差し指で摘まむ。甘酸っぱいその実を口の中に入れると、堰き止めていた涙が、途端に溢れてきた。嗚咽を押し殺して、その場に蹲る。後ろから、傑作くんの足音が聞こえてきたけれど、逃げることも隠れることもできなかった。ラズベリーの甘酸っぱさが、あたしの恋を滲ませていく。

「しおりちゃん」

 あたしの真後ろで、傑作くんの足音が止まる。返事もせずに背を向けているあたしのことを、傑作くんがじっと見つめている気配がした。
 このまま、時が止まってしまえばいいのに。
 傑作くんがあたしだけを見ているこの瞬間のまま、永遠に終わってしまいたかった。
 何も言わない傑作くんとあたしの間で、ゆっくりとバレンタインが過ぎていく。あたしを見つめる目に振り返ることもできないまま、口の中で、甘酸っぱいラズベリーが、涙と一緒に溶けていった。