世界が君を愛してる

 しおりちゃんが、風邪を引いた。ここの所、毎晩遅くまでネット部に籠もっていて、ろくに寝ていないようだったから、体調を崩さないといいな、と思っていたけれど、案の定だった。
 もくじぃは、ダウンしたしおりちゃんの様子を知るなり、「風邪を引いたらネギを首に巻くのが一番です!今から買いに行ってくるから、傑作はしおりを病院に連れて行ってちょうだいっ」なんて言って、さっさとはんせい堂を出て行ってしまった。
 高い熱を出したしおりちゃんを、朝イチで病院に連れて行ったのはいいけれど、病院で処方されたのは解熱剤と風邪薬だけで、結局は、栄養を取って、安静にしているしかなかった。ただの風邪だったのには安心したけれど、相変わらず苦しそうにしているしおりちゃんを見ているのは、胸が痛い。温くなった冷えピタを取り替えて、首筋に掻いていた汗を拭うと、熱に浮かされるように眉間に皺を寄せたしおりちゃんの瞼が、緩やかに開いた。

「けっさくくん……」
「しおりちゃん、具合はどう?おかゆ作ってきたんだけど、食べられるかな?」

 いつもよりか細い声が、ぼくの名前を呼ぶ。盛ってきたお椀を見せると、しおりちゃんはのろのろと体を起こして、ベッドのヘッドボードにもたれかかった。座っているのも辛そうで、出来るなら体を変わってあげたいと眉を垂らす。背中を支えて、スプーンに盛ったおかゆを差し出すと、熱い息を吐くしおりちゃんの唇が、少しだけ開いた。

「どう?食べられそうかな?」
「ん……ごめんなさい。やっぱりまだ食欲が……。せっかく作ってくれたのに……」

 スプーンから二口ほど食べたしおりちゃんは、額を抑えてそのまま俯いてしまった。仕方なしにお椀を置き、その体を横たえさせる。薬を飲ませたかったけれど、何も食べずに服用したら、胃を荒らしてしまうだろう。気怠るそうに喘ぐ肩に布団を掛けて、乱れた前髪を整えた。どうにかしてあげたいけれど、今のぼくには、しおりちゃんを見守ることしか出来ない。

「ごめんね、傑作くん」
「気にしないで。体調が悪いんだから、仕方ないよ」
「ほんとうにごめんなさい。ネット部だって、早く再開しないといけないのに……」

 譫言のように繰り返すしおりちゃんに、片付けようとお椀に伸ばした手を戻した。
 こんな時くらい、何も気にせず休めばいいのに、しおりちゃんは仕事のことばかり気にしている。そんなしおりちゃんを窘めるように額に手を当てて、自分の額と温度を比べた。冷たいはずの冷えピタ越しにも、しおりちゃんの熱の高さが伝わってくる。

「まだ熱が高いね。仕事の事は気にしないで、寝ていた方がいいよ」
「でも……あたし、みんなに迷惑かけっぱなしで……」

 しおりちゃんは顔を隠すように、自分の腕で目を覆った。苦しそうな熱い息が、その後に続く。

「前にもね、こんなふうに、風邪を引いて寝込んだ事があったの。その時はまだ子どもで、寂しくて寂しくて不安だったんだけど、急な風邪だったから、パパもママも仕事を休めなくて……。だから、もくじぃに連絡して、家に来てもらったの。わざわざはんせい堂をお休みにして。みんな忙しくて、きっと大変だったのに。――あたし、昔から人に迷惑をかけてばかり。今日だって、あたしが風邪を引かなければ、二人とも自由に過ごせたのに……」

 しおりちゃんの言葉は、ぼくに話しかけているというより、自分自身に言い聞かせているようだった。腕に隠された目頭から、涙が一筋、目の縁を伝って、枕に染みを作る。
 その涙に気づかない振りをしながら、布団の中で、しおりちゃんの手を握った。額はあんなに熱かったのに、手の平は驚くくらい冷たい。暖かさを分け与えるように、両手で冷たい手の平を包み込む。
 どうにかして、しおりちゃんのことを、守ってあげたかった。体がだるくて、何も食べられなくて、一人で寝ているしかなくて、不安で不安で仕方ないんだろう。病気になって弱くなっているしおりちゃんの心に、微力でもいいから力になりたいと、願うように目を閉じる。

「誰も、迷惑だなんて思ってないよ。しおりちゃんが心配だから、こうして仕事を休んで、看病してるんだ。しおりちゃんのお父さんとお母さんだってそう。しおりちゃんが心配じゃなかったら、わざわざもくじぃを呼んだりしないよ。だから、自分を責めないで、早く元気な顔を見せてよ。しおりちゃんの元気がないと、こっちだって、悲しくなっちゃうんだからさ」

 布団から手を取り出して微笑むと、しおりちゃんは腕を顔から外して、潤んだ目でこちらを見つめてきた。熱い頭を撫でてあげると、その目が母親を見つけた子どものように、緩やかに綻んだ。
 冷たい指先を撫でて、一本一本形を確認する。手の平の温度が、少しずつ、しおりちゃんに移っていく。

「それに、病気の時くらい、誰かに甘えてみたっていいじゃない。ぼくで良ければ、何でも言うこと聞くよ?」

 しおりちゃんの頬に指の背を当てると、火照ったしおりちゃんの顔が、やっと微笑んだ。その笑顔を見て、自分まで気持ちが楽になる。握り返してきた手を布団の上に置いて、頬に当てた指は肌を撫でるようにじんわりと動かした。その動きに隠れて、涙の跡を親指で拭う。
 熱が出て頬が赤くなっているせいなのか、額に貼った冷えピタのせいなのか。ぼくを見つめるしおりちゃんは、小さな子どものようだった。大きな瞬きを繰り返す目を見つめ返して、不安を取り除くように笑顔を返した。しおりちゃんの唇も、同じように上にあがる。

「ありがとう、傑作くん。おかげで少し、元気になったわ」
「それは良かった。早く良くなってね、しおりちゃん」
「うん。――そういえば、もくじぃはどうしたの?朝から姿が見えないけど」
「もくじぃは、しおりちゃんのために、ネギを買いに行ったよ。風邪を治すには、首にネギを巻くのが一番だってさ」

 さっきよりもやわらかくなった表情に、しおりちゃんの力になれたのだと安堵する。
 肩を竦めながらもくじぃの言葉を伝えると、しおりちゃんは呆れたように口角を下げた。その顔に、ネギを首に巻かれたしおりちゃんを想像して、思わず笑い声をもらしてしまう。

「あ、傑作くん。今、ネギを巻いたあたしを想像したでしょう」
「バレちゃった?だってしおりちゃんが、あんまり嫌そうな顔をするから」
「もうっ。……でも思えば、前に風邪を引いた時にも、ネギを巻かれそうになったわね。あの時は、泣きながらそれを拒否したけれど」

 苦い顔をするしおりちゃんに笑顔を返して、頬を撫でていた指を離した。名残惜しそうにするしおりちゃんの目を、眠りを促すように手の平で塞ぐ。薄い瞼の裏から、しおりちゃんの目の動きが伝わってきた。まだ、額は熱い。

「眠りなよ。休んでいれば、そのうち熱も下がるだろうから」
「うん。――ねぇ、傑作くん。さっき、何でも言うこと聞いてくれるって言ったわよね?それに甘えて、ひとつだけわがまま言ってもいいかしら」

 しおりちゃんに返事をするように、瞼に翳していた手を離した。手の平に隠れていたしおりちゃんの視線が、恥ずかしそうにぼくを見つめる。唇はもごもごと、言い辛そうに歪んでいた。

「……あたしが寝るまで、こうして手を握って、傍に居てほしいの。――ダメかな?」
「なんだ、そんなこと。いくらでも傍に居るよ。だから、安心して。ぼくはここに居るから」

 ぼくの声を聞いて、しおりちゃんは安堵したように瞼を閉じた。小さな手を再び両手で握りしめて、眠りにつこうとするしおりちゃんの顔を見続ける。
 強がりなおんなのこ。誰よりも寂しがり屋な、ぼくのこいびと。
 意地を張らないで、素直に甘えてくれればいいのに、ぼくの彼女は、風邪を引いても弱さを見せようとしない。そんなところも可愛いのだけれど、彼氏としては、もう少し頼って欲しかった。
 そんなことを考えながら、安らかな寝息を立て始めた手を、布団の中にしまう。手の平の温もりがなくなったことが、物足りなく感じたけれど、帰ってきたもくじぃの声を聞いて、音を立てないように、しおりちゃんの部屋をそっと出て行った。

「おかえりなさい、もくじぃ」

 階段を降りると、台所に入ろうとしていたもくじぃと鉢合わせた。その姿に、大きな買い物袋から飛び出しているネギを見つけ、しおりちゃんの今後を心配する。また、泣いて拒絶するような事がなければいいのだけれど。

「おお、傑作。しおりの様子はどうだった?」
「今はぐっすり眠っています。でも、熱はなかなか下がらなくて。薬を飲ませたかったんですけど、食欲がまだないみたいで、困ってるんです」

 もくじぃに付いて台所の暖簾をくぐり、中身の減っていないお椀を見せた。それを見たもくじぃは眉を垂らして、おもむろに袋の中の物を取り出した。はみ出ていたネギが机の上に倒れ、葉の部分が他の食材にしな垂れる。

「全く。普段から健康に気を遣ってないから、こうやって寝込むまで体調が悪くなるんです。わたしが若い頃なんかわね、風邪なんか、いちっども引いたことなかったんだから!」

 ぶつぶつ文句を言いながらも、もくじぃが取り出した袋の中身は、ゼリーやスポーツ飲料など、風邪を引いたしおりちゃんにぴったりな物ばかりだった。素直じゃない優しさに、もくじぃにバレないように笑みをこぼしながら、袋の中身を冷蔵庫にしまう。小さな冷蔵庫は、もくじぃが買ってきた食材を入れると、すぐに満タンになってしまった。

「ああ、傑作。そのリンゴとヨーグルトは、手前においてくれるかな」
「リンゴとヨーグルト?何かに使うんですか?」
「うん。昔から風邪を引いた時にはね、リンゴを擦り下ろして、ヨーグルトと蜂蜜を混ぜた物をよくあげたんだよ。どんなに食欲がなくても、これだけは食べられたから、きっと今日も食べられると思ってね」

 そう言ってリンゴを手に取るもくじぃの目は、昔を思い偲ぶようにやわらかく細まっていた。その視線に、しおりちゃんの話していた昔話を思い出す。そこに、ぼくの知らないしおりちゃんが存在していることに、ちょっぴり悔しさを感じながらも、もくじぃのしおりちゃんを想う気持ちに、心が柔らかくなった。
 ほらね、しおりちゃん。やっぱりみんな、君の事が大切なんだよ。
 自分を責めていたしおりちゃんに、今の言葉を聞かせたいと思いながら、もくじぃに差し出されたリンゴを見つめる。赤いその色に、どれだけの愛情が詰まっているのか、しおりちゃんは知っているだろうか。

「傑作、しおりが目を覚ましたら、作ってやってくれないか。材料はここに置いておくから」
「……いえ、すりりんごは、もくじぃが作ってあげてください」
「ん?どうしてだ?傑作が作った方が、しおりも喜ぶだろう」
「いいえ。しおりちゃんだって、たまには子どもに戻って、甘えたい時があるんです。ぼくじゃあ、まだ力不足ですから、もくじぃが傍にいてあげてください。店番はやっておきますから」

 未だ疑問符を浮かべるもくじぃにリンゴを押しつけて、エプロンを片手にはんせい堂へと戻る準備をした。
 しおりちゃんの癒やしになれないのは残念だけど、たまには祖父と孫の二人きりで、ゆっくり時間を過ごせばいい。頑固で意地っ張りな性格も、今日ならきっと、お互い素直になれるだろう。

「もくじぃ、しおりちゃんの事、頼みますよ」

 リンゴを見つめながら台所で突っ立つもくじぃに声をかけて、はんせい堂の電気を付けた。寂れたこの店も、一人でいると、余計に広く感じる。
 やっぱり、しおりちゃんともくじぃがいないと、毎日がつまらない。
 二人の笑顔を思いながら、部屋の方向を見上げて、ふぅっと息を吐いた。そのため息を聞いたリリックが、本棚の上から、声をかけてくる。

「あら、傑作。しおりの看病はもういいの?」
「うん、あとはもくじぃがした方が、いいと思うから」

 少し拗ねたような口調になったぼくの言葉に、リリックは尻尾を振って床に飛び降りてきた。青い瞳がぼくを見上げて、様子を伺うように首を傾げる。

「あらあら、まさかもくじぃに妬いてるの?傑作ったら、案外嫉妬深いのね」
「そうじゃないよ。ただ、今しおりちゃんが素直に甘えられるのは、もくじぃだと思ってさ」

 寂しさを埋めるようにリリックを抱き上げると、いつもはすぐ逃げようと動く体が、大人しく腕の中に収まった。長い尻尾が頬に当たって、なんだかくすぐったい。でも、その動きは、さっきぼくが、しおりちゃんの頬を撫でていた動作に似ていた。

「そんな寂しそうな顔しないの。しおりは傑作にだって、もっと甘えたいはずよ」
「そうかなぁ」
「当たり前じゃない。傑作には傑作にしか出来ない役割があるの。しおりもそれをわかって、それに頼りたいから、傑作を彼氏に選んだんじゃないの。もっと自信を持ちなさい」

 リリックの柔らかい肉球が、ポンッと、額に押し当てられた。その感触に、拗ねていた唇が、弧を描いていく。

「でも、もくじぃに看病を任せたのは良かったかもねぇ。あの二人、普段は言い合ってばかりだから、たまには素直になればいいのよ」
「もくじぃもしおりちゃんも、お互いを想い合っているのに、どうして言い合いばかりするんだろう。今日だって、しおりちゃんのために、あんなにたくさん買い物をしてきたのに」
「みんながみんな、傑作みたいに素直な訳じゃないのよ。ま、世界が傑作だらけだったら、地球は今よりずっと平和になるでしょうけどね」

 にゃおんとぼくに擦り寄ってくるリリックを抱きしめて、古書部の椅子に座った。
 当たり前に思っていた日常も、ひとつピースが欠けるだけで、物足りないものになってしまう。今まで生きていた世界が、絶妙なバランスの上に出来上がっていた事を知って、余計にしおりちゃんの事が愛しくなった。しおりちゃんだけじゃない。このはんせい堂の事が、ぼくは、大好きでしょうがない。

「ありがとう、リリック。おかげで、元気になったよ」
「ふふん。しっかりしなさいよね。傑作まで落ち込んでたんじゃあ、私だってつまらないわ」

 膝の上に丸まるリリックを撫でながら、はんせい堂で過ごした日々を思い出す。長い歴史の中を、この本たちは、ここで過ごしてきた。それと同じように、ぼくやしおりちゃんも、このはんせい堂で、歴史を作っていくのだろう。
 そういえば、と、しおりちゃんの子どもの頃を、よく知らない自分を思い出す。今度時間があったら、もくじぃに話を聞いてみよう。しおりちゃんは気づいていないだろうけど、もくじぃはぼくたちのことを、とっくの昔から知っているんだ。風邪を引いて泣いていたしおりちゃんの話も、すりりんごが好きなしおりちゃんの話も、聞きたいことがたくさんある。
 しおりちゃん、ぼくは、もっと君のことが知りたいよ。どんな些細なことでも、ひとつでも多く君の歴史を知って、しおりちゃんの、一番の理解者になりたいんだ。
 そしていつか、二人で同じ歴史を作っていけたら、これより幸せなことはないだろう。その時には、もくじぃやリリックも、隣にいればいい。
 穏やかな午後の風が、開けっ放しだった窓から流れてきた。その暖かさに、リリックが大きな欠伸をもらす。変わらない日常を願いながら、ふわふわとしたリリックの頭を撫でる。遠くの部屋から漂うリンゴの匂いが、やわらかい風にのって、静かなはんせい堂を、包み込んだ。