アプリコット・ワルツ

 ふわりと、部屋の中に甘い香りが広がる。殺風景で何の面白味もない部屋に、女の子がいるというだけで、何だか緊張してしまう。それが、付き合いたての、ずっと大好きだった女の子なら尚更だ。しおりちゃんとの付き合いは長いけれど、「彼女」としてのしおりちゃんには、実はまだ慣れていない。それ故に、いつも自分が寝起きしているこの部屋に、しおりちゃんが座っていると、何もしなくても鼻の下が伸びそうになってしまう。

「傑作くん、ちゃんと話聞いてる?」
「あ、うん。聞いてる聞いてる」

 座布団の上にちょこんと座って、ファッション雑誌を捲っているしおりちゃんに見とれていると、間抜けな顔を窘めるような声で話しかけられた。いけないいけないと首を振り、しおりちゃんの持っている雑誌を覗き込む。今の季節にはまだ寒そうな、薄着のモデルたちがそこには並んでいた。

「こっちのスカートと、このショーパン、どっちが良いと思う?」
「うーん。しおりちゃんなら、どっちも似合うと思うけど」
「それじゃあいつまで経っても決められないじゃない。傑作くんの好みはどっち?」

 はっきり言って、それほど違いのわからない服を見比べながら、しおりちゃんの質問に答えるために、腕を組んで雑誌から視線を逸らした。モデルたちが着ていた服を、頭の中のしおりちゃんに着せ替えて想像してみる。やっぱり、どんな服を着ていてもしおりちゃんはしおりちゃんだ。可愛いし、どっちの服も、それなりに似合っている。

「じゃあ、こっちのスカートかな」
「『じゃあ』が余計よ。あーあ、傑作くんも、もうちょっとファッションに興味を持ってくれたらいいのに」

 口では残念そうに言いながらも、雑誌に印を付けるしおりちゃんは、何だか楽しそうだった。
 はんせい堂がお休みの今日は、昼ご飯を食べ終わった後から、こうしてぼくの部屋で、ささやかなお家デートを楽しんでいる。両思いになって付き合ってみたものの、中々二人きりの時間が取れないぼくたちにとっては、大切な時間だ。例えキスをしたり、触れ合ったりしていなくても、ぼくの頬を緩めるには、充分な一時になっている。
 とは言え、キスをしたり、触れ合ったりしたくないわけではない。ぼくだって一人の男だし、彼女と二人きりで自室にいて、あんなことやこんなことを妄想せずにはいられない。けれど、それを行動に移すのはまだ早いだろうし、そんなことをして、しおりちゃんに嫌われてしまったら大変だ。不埒な妄想は、ぼくの頭の中だけに留めておけばいい。

「あ、今話題のデートスポット特集だって。良い場所があったら、今度二人で行ってみない?」

 無邪気に、楽しそうに笑うしおりちゃんは、不健全なぼくの頭の中身なんて、全く気づいていないようだった。その様子に安心すると共に、ちょっと物足りなくもなる。でも、今はしおりちゃんとの時間を楽しむことが先だ。
 畳の上に広げられた雑誌を見て、夜景の見える公園やお洒落なカフェの写真を眺める。どこもかしこも、しおりちゃんが好きそうな、イマドキの場所だ。

「わー!!このカフェのラテアート素敵!!うさぎやライオンも作れるんですって!」
「ほんとだ。今度お休みがもらえたら、一緒に行ってみようよ」

 そう言って、雑誌からしおりちゃんに視線を移した時だった。視界に入ってきた光景に、嬉しそうなしおりちゃんの返事が掻き消される。瞳孔が開いて、口の中が渇いていくのを感じた。一瞬自分がどこにいるのか、わからなくなる。
 あれ、って。
 雑誌の横に両手をつき、前屈みになっているしおりちゃんの体勢は、ぼくの座っている場所から、真っ直ぐ前にあった。体が下を向いているせいで、服が垂れ下がり、胸元が丸見えになっている。ついでに、少し暗くなった服の中から、下着に見え隠れする、小さな突起物が見えた。周りの肌色より濃い色をしたあれは、まさしく、その、しおりちゃんの……。

「傑作くん?どこ見てるの?」

 正面から聞こえたしおりちゃんの声に、慌てて顔を上げた。そのまま後ろに仰け反り、不格好に正座をして座り直す。
 まずい。あんなところを見ていたなんてバレたら、しおりちゃんに嫌われる。
必死に平静を装おうと笑顔を作ってみたけれど、反ってそれがしおりちゃんの疑問を深めることになったみたいだ。しおりちゃんは、さっきのぼくの視線を辿るように首を動かして、肌の見えていた胸元を自分の目で捕らえた。そして、ひっ、と小さい悲鳴を上げた。
終わった。終わった。ついにやってしまった。一緒にデートの行き先を考えている時に、胸を凝視する彼氏なんて、最悪以外の何者でもないじゃないか。
 自分の失態を深く後悔しながら、本能に逆らえなかった目を潰したくなった。ああいう時には、見て見ぬ振りをしてあげるのが、出来る男の振るまいだろう。
 胸元を両手で隠し、顔を俯かせるしおりちゃんに声もかけられないまま、あたふたと手を動かした。どう弁解しても、胸を見ていたことは事実なんだから、ここは素直に謝るしかない。

「ご、ごめん。しおりちゃん!わざとじゃないんだ。たまたま、その、視線を上げたら、そこに……」

 ああ、ダメだ。もう何を言っても言い訳にしかならない。
 土下座でもしようかと畳に手をついた時に、頭上から短く息を吸う声が聞こえてきた。不思議に思って顔を上げると、髪の隙間から、真っ赤になったしおりちゃんの顔が目に入った。息の音は嗚咽に変わって、涙が混じろうとしている。

「し、しおりちゃん……」

 悪いことをしたとは思っていたけれど、まさか泣かせるとは思っていなかった。でも、よく考えたら当たり前のことだ。女の子が胸を見られるなんて、痴漢に遭うのと同じようなことだろう。いくら彼氏だって、本人の許可を取っていなければ、犯罪と一緒だ。
 震えたまま顔を上げないしおりちゃんに、自分がいかに汚れた人間だったのかを思って恥ずかしくなった。弁解したい気持ちを抑えながら、ただ畳に額を擦りつけて、しおりちゃんに頭を下げる。これで怒られることになってしまっても、しおりちゃんを傷つけたままでいるなんて耐えられない。

「ごめん!本当にごめんね、しおりちゃん!」
「…………」
「傷つけるつもりはなかったんだ。本当にごめん。もう、こんなことしないから――」
「……った」
「え?」
「傑作くんに、バレちゃった……」

 やっと口を開いたしおりちゃんは、ぼくを非難するわけでもなく、ただぽつりと、声を落として体を震わせていた。真っ赤な顔が斜めに歪んで、唇がひくひくと小さく震えている。てっきり怒られると思っていたぼくには、予想外の表情だった。訳もわからずにしおりちゃんを見つめて、恐る恐る、顔を覗き込むようにして問いかける。

「バレちゃったって、何が?」
「……むね、ブラジャーで盛ってるの、わかっちゃったでしょう?もう、こんな……ただでさえ小さいのに、下着で誤魔化してるなんてバレたら、あたし……」

 しおりちゃんはとうとう、赤い顔を手で覆って泣き出してしまった。その動作に慌てて土下座の体勢を崩して、肩を掴もうとする。けれど、さっき犯したばかりの前科を思い出して、しおりちゃんに触れることを躊躇した。

「しおりちゃん。お願いだから泣かないで、ね?」
「だって……傑作くんだって嫌でしょう?こんな小さくてみすぼらしい胸。小さいってわかったら、嫌われると思って、必死に隠してたのに……」

 しおりちゃんの声はどんどん小さくなって、顔もぼくの頭の位置からは見えないくらいに低くなってしまった。どうすればいいのかと、肩に置くことのできなかった手を、うろうろとしおりちゃんの周りで動かす。
 下着で胸の大きさを誤魔化す技があったなんて、知らなかった。それに、大きかろうが、小さかろうが、それがしおりちゃんのものであれば、何も変わらないと思うのだけど、しおりちゃんは違うのだろうか。第一、どこからが大きくて、どこまでが小さいのかも、ぼくにはよくわからない。

「ぼくは、大きさなんて関係ないと思うけど」

 背中を丸めて泣くしおりちゃんを、抱きしめたいと思った。けれど、今そんなことをしてしまったら、しおりちゃんを余計に傷つけるだけだろう。元はと言えば、ぼくがしおりちゃんの胸を見なければ――もっと言えば、不健全な妄想をしていなければ――しおりちゃんは、泣くことなんてなかった。つくづく馬鹿な男だ。大事な彼女を、自分の欲のために傷つけるなんて、最低だ。

「だから、しおりちゃんも、そんなに気にすることないよ」
「嘘。傑作くんは、何も知らないからそんなことを言えるんだわ。こんな小さい胸、見たい人なんているはずないもの」
「そんなことない!ぼくは、しおりちゃんの胸が見たいよ!!」

 大声を出して、そこで我に返って固まる。今度こそ終わりだ。完全に墓穴を掘った。できることなら、掘ってしまった墓穴に、そのまま埋まってひっそりと死んでしまいたかった。胸を盗み見て傷つけた本人に、今度は面と向かってその胸が見たいと言うなんて、犯罪者でも中々やらない。今のぼくは、ただの変態だ。
 驚いた顔でぼくを見つめる、しおりちゃんの視線が痛かった。弁解の言葉も浮かばないまま、諦めたような、泣き出したいような曖昧な表情が顔に貼り付いて、嫌な静けさを纏った部屋の中に放り出される。

「……傑作くん、今の――」
「ああああ!!!違う!今のは違うんだ!ぼくが見たいのは、その、しおりちゃんのなんだけど、そういう意味じゃなくって!見たいか見たくないかって聞かれたから、そりゃあ見たいなって思ったけれど、だからって覗き見たりするわけじゃ、あ、でも、さっき……ああ違う!見てない見てない!何にも見てない!!だから気にしないで!しおりちゃんは今のままでいいから!そのままのしおりちゃんが大好きだから!!」

 自分が何を口走っているのかわからないまま、必死に浮かんだ言葉を並べ立てた。顔に熱が集まって、くらくらと目眩がしてくる。声と一緒に動かしていた手が、所在のなさそうに宙をふらふらと漂っていた。
 彼女との大事な時間を過ごすはずが、とんだ展開になってしまった。ふっと切れた言葉に、逃げ出したい衝動に駆られながら肩を落とす。今日だけで、何度人生の終わりを体験しただろう。深く掘りすぎた墓穴は、誰かが埋めてくれるだろうか。

「傑作くん」

 ぼくの名前を呼ぶしおりちゃんの声に、覚悟を決めて瞼を閉じた。しおりちゃんと過ごした日々が、走馬燈のように脳裏に浮かぶ。
 さようなら、しおりちゃん。短い間だったけれど、君と恋人になれて、本当に幸せだったよ。傷つけちゃってごめんね。願うなら、どうかこの先も幸せに……。

「傑作くん、ありがとう」

 へ?と、自分でも間抜けに思うくらい素っ頓狂な声が漏れた。泣いていたしおりちゃんは、いつの間にか、ぼくの背中に腕を回して、胸元に顔を埋めていた。状況がわからないまま、顔の横に上げていた腕を、右往左往と上下に動かす。しおりちゃんの抱きつく力が、ぐっと強まった。

「ありがとう。あたしを励ましてくれてるのね」
「励ますって……元はと言えば、ぼくが悪いんだから」
「ううん。傑作くんは悪くないわ。あたし、傑作くんが彼氏で良かったって、心から思うの。傑作くんを好きになって、両思いになれて、ほんとうに幸せ」

 しおりちゃんが顔を上げて、はにかんだ笑顔でぼくを見つめた。その表情に、さっきとは違う熱が、顔に集まって体温を上げていく。

「しおりちゃん」

 大好きだと、大声で叫び出したかった。恐る恐る両手をしおりちゃんの背中に回すと、はにかんでいた笑顔が、いっそう幸せそうに綻んだ。しおりちゃんに嫌われていなかったことが、涙が出てきそうなくらいに嬉しい。ぎゅっと力を入れて、華奢な体を腕に収めた。もう二度と傷つけるものか。不埒な妄想なんて、金輪際考えたりしない。

「ごめんね。しおりちゃん」
「謝らないでよ。それにね、傑作くん。あたし、傑作くんになら、いいよ」
「――?何が?」
「……むね、傑作くんになら、見られてもいいよ。小っちゃくて恥ずかしいけど、そのままのあたしでいいって、傑作くんが言ってくれたから」

 頬を赤らめてぼくを見つめるしおりちゃんに、立てたばかりの誓いが崩れ落ちそうになった。何も言えないまま固まっているぼくの手を、しおりちゃんが掴んで自分の胸元に持っていく。服の上から、むにっと、何か柔らかい物を押しつぶす感触がした。

「あ、でも……明るいままじゃなくて、電気は消してね。初めてだから、どうしていいか、わからないんだけど――」

 近くにいるはずのしおりちゃんの声が、どんどん遠くなっていく。右手に感じた柔らかさ以外が、全て幻想のような気がしてきた。くらくらと、目眩がまたぼくを襲う。しおりちゃんが掴んだ右手から、ドキドキと、早い鼓動が伝わってきた。それが、自分のものなのか、しおりちゃんのものなのか、ぼくにはもう考えられない。

「傑作くん」

 不安と期待の混じった表情をするしおりちゃんの唇が、ゆっくりとぼくに近づいてきた。ぼやけていく顔に、抑えようとしていた欲が、ぐらぐらと地面を揺らしていく。固くなったぼくの唇と、柔らかいしおりちゃんの唇が重なった時に、建てたばかりの誓いの塔が、音を立てて崩れ去った。