明日のぼくに

「はい、わかりました。では明日、そちらにお伺いします」

 長かった電話を切って、傑作は長いため息をついた。今年でこの世に生を受けて三十年以上になるが、未だに仕事の電話には慣れない。それは、傑作がつい最近まで、自由気ままなフリーターでいたからなのか、それとも傑作自身が、堅苦しい会話が苦手だからなのか、その答えはわからない。
 凝った体を解すように大きく伸びをしながら、傑作はベランダから夜空を眺めた。そこに広がる無数の星達を見たかったのに、明かりが消えないこの街では、遠い宇宙の輝きなんて目に映らない。仕方なく傑作が真下に視線を落とすと、もうすぐ日付が変わるというのに、まだ外を人が歩いていた。せかせかと歩き続ける人たちを見下ろしながら、傑作はまたため息をつく。
 ギターを片手に歌いたかったけれど、こんな夜中に大声を出せば、隣に住む人から苦情がくるだろう。自由に歌えていたあの頃を思い出して、傑作は星の見えない空を見上げる。ビルに遮られて、小さな傑作の部屋からは、見える空がとても狭い。片手で捕まえられそうな空を見ていると、空しさが押し寄せてくる。
 ぼくは、今どこにいるんだろう。
 念願だったCDデビューを果たしてから、もうすぐ1年が経つ。あれほど憧れていた夢だったのに、ここのところ傑作の気分は浮かないままだ。歌が好きで、歌が歌いたくて追ってきた夢なのに、前ほど自由に歌える時間がなくなってしまった。毎日のように業界の偉い人たちの飲み会に誘われて、一言も歌うことなく帰っていく。そんな日々に、内心疑問を抱いていたのだ。自分のやりたかったことは、本当にこういうことだったのか。
 こんなに悩むなんて、久しぶりかもしれない。
 ビルの明かりを見つめながら、昔を思い出すように傑作は目を細める。
 あれは、はんせい堂で働き始めて数年が経ち、地元で行われた同窓会に参加した後のことだった。大学を卒業するのも忘れ、夢を追っていた傑作とは違い、再会した同級生たちは、皆大人として働き始めていた。はじめは素直に同級生の近況を知り、楽しんでいたが、だんだんと今の自分が不安になってきたのだ。夢を諦めるつもりはない。けれど、いつ叶うのかわからない夢を追い続けて、自分は大丈夫なのか。たまに届く両親からの手紙にも、暢気な傑作を心配する言葉が書かれていた。自分が平気でも、親に迷惑をかけるのは心許ない。周りと自分を比べない傑作にだって、悩むことはある。自分が夢を追うことで誰かが傷つくのなら、傑作は夢を追うことを躊躇ってしまう。

「あたし、傑作くんの歌が好きよ」

 あの頃のことを思い出すと、傑作の耳には、無邪気な女の子の声が蘇る。あの日は、そうだ。はんせい堂に帰ってきて、こうしてベランダにいて、ギターを鳴らしながら歌を歌っていたんだ。

「もくじぃに聞いたの。傑作くん、自分の歌のCDを出すのが夢なんですってね。あたし、その夢が叶う気がするの。だって、こんなに素敵な歌声なんだもの」

 満面の笑みでそう告げられた傑作は、柄にもなく赤面して、言葉を失ってしまった。年下の女の子に、面と向かって歌を褒められたのは初めてのことだった。そして、なんとなく思ったのだ。この子が言うのなら、自分の夢も本当に叶うんじゃないかって。何の根拠もない直感だったが、立ち止まりそうになっていた傑作の背中を押すには、その子の言葉は充分だった。迷っていた自分が変に思えるくらい、清々しい気分になっていく。

「ありがとう、そう言ってもらえると、自信が持てるよ」

 はんせい堂のことを思い出すと、傑作は少年時代に戻ったかのように、大らかな気持ちになる。店主のもくじぃをはじめ、そこで出会った人々は、いつも傑作の夢を応援してくれた。オーディションがあれば付き添ってくれるし、時間があれば一緒に歌ってくれる。その時間が、傑作にとってどれほど尊いものだったのか、今になってはっきりわかる。

「お前、いつまで夢なんか追ってるつもりなんだ?いい加減定職について、一人前の大人になれよ」

 はんせい堂のことを考えるうちに、いつか、街で偶然、かつての同級生にあった時に言われた言葉を思い出した。あまり話したことのなかったソイツは、傑作が夢を追ってアルバイトをしていることを知ると、小馬鹿にしたように鼻で笑い、そう言ってどこかへ消えてしまった。
 スーツ姿のソイツと、本屋のエプロン姿の自分。どちらが格好いいかと言われれば、確かにソイツなんだろうけど、だから何だというのだろう。近所に住んでいたアイツが就職したから、傑作も就職しなければいけないのだろうか。昔好きだったあの子が結婚したからといって、傑作が所帯を持つ理由にはならない。
 夢を追うのに、期限があるのだろうか。
 大学生になってまで、成人したというのに、三十を過ぎて何をやっているんだ。消えていたはずのモヤモヤが、傑作の元に時間をかけて戻ってきた。気持ちのままに「馬鹿にするな」と怒れてしまえばいいのに、温厚な傑作にはそれができない。
 靄の晴れない空を掃除するように、傑作ははんせい堂に帰ってから歌を歌い続けた。幼い頃から、傑作は悲しい気持ちになると、大声で歌を歌った。けれど、仕事中にギターを鳴らすわけにはいかないから、口笛や鼻唄を使って、必死に自分を励ましていた。

「ねぇ、傑作くん。いつか夢が叶っても、どんなに時間が経っても、傑作くんは、そのままの傑作くんでいてね」

 そんな時に、またあの女の子に言われたのだ。右手を包まれて、祈るように言われたその言葉に、傑作は声を失った。励まされるほど、落ち込んでいた気持ちが顔に出ていたのか、それとも、心を読まれたのか。問いかけたかったけれど、傑作はその子の顔を見て、それをやめた。目線を下げて、傑作の手に額をくっつけるその子は、いつになく小さく見えた。前々から小柄な子だとは思っていたけれど、ここまで脆く見えるのは初めてだった。手を離せば、どこかへ消えてしまいそうだから、必死に傑作の手を握っているようにも見える。

「しおりちゃんの頼みなら、頑張ってみるよ」

 そう口に出した時に、初めて自覚したのだ。ぼくは、この女の子に、恋をしている。立ち止まりそうな背中を押してもらったあの日から、ぼくはこの子が大切で仕方なかった。
しおりちゃんの言う「そのままのぼく」は、一体どんなぼくなんだろう。
 それを聞けないまま、傑作は夢を叶えて、はんせい堂を出てきてしまった。けれど、再会した時にしおりの涙を見て、傑作は思ったのだ。この子も自分と同じように、自分がどこにいるのかわからなくなっている。だから、あの日支えてもらった分、今度は自分が、この子を支えてあげようと。
 閉じていた携帯を開いて、傑作はアドレス帳にカーソルを合わせる。そこに表示された名前を見て、傑作は頬を緩ませた。明るくて、勝ち気で、誰よりも寂しがり屋な女の子の名前が、傑作の手の中で光っている。
 ねぇ、しおりちゃん。ぼくは、変わっていないかな。しおりちゃんの好きなぼくのままでいられているかな。
 夢を叶えた今の自分が、あの頃とは違っていくのを、傑作は痛いほど実感していた。ふと気を緩ませれば、昔自分を馬鹿にした同級生のように、人を見下すことで自尊心を保とうとしてしまう。そんな自分が嫌で、何かに縛られようとしている自分が嫌で、傑作は必死にあの頃の自分に手を伸ばした。はんせい堂の皆と、夢を追いながら、楽しく歌っていたあの頃。少年時代にも負けない、目が眩むほど愛おしいあの日々。
 アドレス帳に表示された数字をプッシュして、傑作は携帯を耳に当てる。数回のコールのあと、弾んだような声色が、電波を通じて傑作の耳に響いた。

「もしもし、傑作くん?」

 その声を聞くと、傑作は自然と笑顔になってしまう。いつだって自分を支えてくれた優しい言葉を反芻して、傑作は声を出した。

「もしもし、いきなりごめんね。眠ってたかな?」
「ううん。大丈夫。ちょうどお風呂から上がって、本を読んでいたところよ」

 だいじにだいてる ゆめはかなうかい?
 あいするだれかが そばにいるかい?
 くるしさにむなしさに まけていないかい?

 しおりの声を聞きながら、傑作の元に、いつかの自分が書いた手紙が届いてきた。はんせい堂のベランダで、五年後の自分への手紙を片手に、もくじぃやしおりと語り合ったのだ。時を経てて空から届いた手紙を、傑作は黙って読み返す。期待と不安の混じったその文字に、傑作は穏やかな苦笑を漏らした。

「それなら良かった。ちょっと、しおりちゃんの声が聞きたくなって」
「え、声?声か~。何だか照れちゃうな。えへへ。でも、うん。あたしも傑作くんの声、聞きたかった」

 かならずかなうさ ゆめをすてちゃだめ
 どこかにまってる あいするひとが
 つらいことのかずだけ やさしくなるよ

 夢を信じる小さな自分に向かって、傑作は手紙を飛ばす。その手紙は夜空を超えて、いつか傑作の元へ届くのだろう。悩んでいたって、時間は止まってくれない。誰かに傷つけられて泣きそうになっていた自分に、この手紙が届けばいい。
 携帯から聞こえるしおりの声を聞きながら、傑作は空を仰いだ。そういえば、あの日一緒に手紙を出したしおりは、五年後の自分に、一体何を書いたんだろう。再び一緒に手紙を開ける約束をしたが、しおりはそのことを覚えているだろうか。

「しおりちゃん。助けられてるのは、ぼくの方だよ」

 昔、脚立から落ちたしおりを庇ったあと、反射的に言いそうになった言葉を、傑作は小さく呟く。けれど、その声は夜を走るトラックの音に混じって、都会の街に消えてしまった。

「え?何?ごめんね、外がうるさくてよく聞こえなかった」
「なんでもないよ。それよりしおりちゃん、今度こっちに遊びにおいでよ。新しい曲が出来たんだけど、一番にしおりちゃんに聴いてほしいんだ」

 今はまだ、素直に伝えることはできない。でも、いつかあの日のお礼が言える日が来るだろう。
 変わりたいと涙を流すしおりと、変わりたくないと後ろを振り返る傑作。どちらも不器用で、弱虫な、似たもの同士だ。それでも手と手を取り合って歩き出せば、また道の続きは見えてくる。
 嬉しそうにスケジュール帳を確認するしおりの顔を思い描きながら、傑作は未来の自分に手紙を書いた。いつか自分の元に届く返事が、今よりも幸せなものであるように願いながら。
 生温い都会の風が、どこからか桜の花びらを運んでくる。冬が終わり、やがて春がやってくる。傑作の夢は続いていく。電話の向こうで、笑い声をこぼす、かけがえのない女の子と共に。