素敵なおバカさん

 文房具屋の扉を開けて、しおりはふぅっと息を吐く。福袋商店街の外れにあるこの店は、最近オープンしたばかりだ。そのため、取り扱っている文具も、最近の流行を取り入れた、お洒落なものになっている。動物型をしたクリップに、果物の形をした付箋。コピー用紙を買いに来たしおりの両手が、小さなレジ袋で塞がっているのは、その魅力から逃げられなかったせいだ。
 かわいい雑貨が手に入って嬉しいけれど、ちょっと買いすぎたかしら。
両腕にレジ袋をぶら下げ、胸の前にコピー用紙を抱えながら、しおりは口の中で呟いた。五百枚入りのコピー用紙は、しおりの力では運ぶのに少し力がいる。それでも、しおりだって年頃の女の子。職場で使う事務用品を少しでもかわいく揃えたいと思うのは、当然のことだろう。
 文房具屋の前を離れて、横断歩道の前で立ち止まる。重い荷物を抱えて制止するのは、信号待ちの僅かな時間でも腕にくる。徐々に痺れていく腕を小刻みに動かしながら、しおりは中々変わらない信号を睨みつけた。

「あら、傑作くん?」

 目線を上に向けると、視界の端に、見慣れたもじゃもじゃ頭が目に入った。思わずその人物の名前を呟いて、自然と目線を傑作へと向ける。
 そういえば、本の配達に行くって言っていたっけ。出掛け間際の会話を反芻しながら、しおりは傑作のことを見つめた。配達を終えたであろう傑作の傍らには、見慣れない老婆が立っている。何度も頭を下げる老婆と、笑いながら会釈をする傑作の様子からは、傑作が老婆を助けていたことが容易に想像できる。困っているお年寄りを助けるなんて、現実ではそうそうお目にかかれない光景だが、傑作はそれを素でやってしまうのだ。
 傑作くんは、優しいものね。
 青に変わった横断歩道を渡りながら、しおりは無意識に口角を上げる。腕に抱いたコピー用紙を抱え直しながら、傑作がこちらに歩いてくるのを待った。

すきに なるのなら
すてきなおバカさん

 傑作を待ちながら無自覚にこぼれた歌声に、しおりは抱えたコピー用紙で口を押さえた。どうして今、この歌が頭に流れるのだろう。夏目漱石の『坊ちゃん』をモデルに歌ったこの歌は、しおりのお気に入りだ。けれど、それが今歌を口ずさむ理由にはならない。自分の行動に首を傾げるしおりだったが、その疑問符は、こちらに向かって駆けてくる傑作の声によって掻き消された。

「しおりちゃん!しおりちゃんも、今帰るところ?」

 傑作の言葉に返事をすると、しおりは「すてきなおバカさん」のことなんて忘れてしまった。いつものような朗らかな笑みを浮かべる傑作を見上げて、会話を続ける。

「見てたよ。傑作くん、またお婆さんを助けてたでしょう」
「え?――ああ、この近くに用があったらしいんだけど、荷物が重そうだったから、途中まで運んであげたんだ。遠くに住んでるお孫さんに、会いに来たんだって」

 助けた老婆に自分の祖母を重ねたのか、傑作の表情が一段と明るくなる。しおりはそんな傑作を見ながら、感心するように肩の力を緩めた。この人は、人に親切にすることに疑問を抱かない。偽善でやっているわけでも、羞恥心を抱くわけでもなく、思うがままに行動しているのだ。人に親切にすることで、自分の評価を上げようなんて、きっと考えたこともないんだろう。

「それより、しおりちゃん。また随分と大荷物だね」
「うん。コピー用紙だけを買う予定だったんだけど、お店の中を見ていたらついつい欲しくなっちゃって。ほら、あのお店、かわいい文房具がたくさん売っているでしょう?」

 腕にぶら下げたレジ袋を見せるように体を動かして、しおりは苦笑いをする。傑作と話している間に、腕はまたびりびりと痺れ始めていた。そんなしおりの表情を読み取ってか、傑作はコピー用紙をひょいと持ち上げる。

「確かに、あのお店の文房具はオシャレな物が多いよね。ぼく、一度しか行ったことがないんだけど……。あ、そっちの袋も持とうか?」
「ううん、こっちは軽いから平気。ありがとう、傑作くん」

 しおりが両腕で一生懸命抱えていたコピー用紙を、傑作は片腕で抱えてしまっている。ふいに見えた傑作の力強さに目を丸くしながら、しおりは腕に下げていたレジ袋を手の平に持ち直した。老婆を助けていた光景を見ていたからか、今日は傑作の優しさがよく目につく。普段は気がつかないだけで、傑作はいつも、こうやって人を助けているのだろう。

 すきに なるのなら
 すてきなおバカさん
 こっそりだれかのために ながしてるあせ

 再び頭に流れた歌声に、しおりは驚いて傑作を見上げる。曲を聴いていた訳でもないのに、どうしてこの歌が流れるのだろう。

「どうかした?しおりちゃん」
「う、ううん。なんでもないの。傑作くん、それ、重くない?」
「平気だよ。これより重たい本なんて、古書部にはたくさんあるから」

 無邪気に笑う顔を直視できないまま、しおりは頭に浮かぶメロディーに首を振った。
いつか出会ってみたい、自分だけの素敵なおバカさん。けれど、その夢は未だに叶っていない。ロマンス元年は何の進展もないままだし、しおりの周りには素敵なおバカさんになれるような男性はいないのだ。
 そう、だから――
 隣を歩く傑作の顔を盗み見て、しおりは唇を尖らせる。傑作くんは「楽しいおバカさん」ではあっても、「素敵なおバカさん」ではないのだ。『坊ちゃん』の最初の一行も知らない人が、「素敵なおバカさん」であるはずがない。

「あ、しおりちゃん。はんせい堂が見えてきたよ!」

 暢気な傑作に微苦笑を漏らしながら、しおりはお気に入りのメロディーを頭から無理矢理消し去った。はんせい堂に着いたら、買ったばかりの文房具を飾って、それからお茶にしよう。気まぐれに流れた歌声なんて、気にすることはない。
 見慣れた我が家の扉を開けて、しおりは思いきり「ただいまー!」と叫んだ。続いて聞こえたもくじぃとリリックの声に微笑むと、後ろから傑作の笑い声が耳に届いた。