聖なる夜に慈しみを
※学パロ今日は人生で1番最悪な日かもしれない。今までの十数年間、私なりに色々なことを経験してきたけど、ここまでの日はなかった。声が出なくなって、身体が無意識に震えるなんて、小説の中の出来事だと思ってた。けれど、それは本当だったみたい。
呼びかけた名前を呑み込んで、真っ白になる頭をフル回転させながら、私はあの場所から逃げ出した。
ぽつりぽつりと歩く道は、恋人たちで溢れている。さすがクリスマスだ。——そうだ、今日はクリスマスなんだ。だから私は、こうして夜の街を歩いている。
スピーカーから流れる楽しげな歌声は、外国語のせいで何を言っているかわからない。ケーキを売っているサンタクロースが、怪訝そうな顔で私を見ている気がした。愛に溢れたこの街で、独りぼっちは逆にスポットライトを浴びているようだ。
悲しい妄想から逃げ出すために、ポケットに入れておいたクッキーを取り出した。ジンジャーブレットの笑顔も、今は皮肉にしか見えない。涙が出そうになったから、急いでその笑顔を噛み砕いた。私の好みとは違う、甘さ控えめのチョコクッキー。今日のために頑張って作ったんだ。何度も渡すシチュエーションを思い描いて、貰った瞬間のあの人の顔を想像したりして。
あれ、なんでだろう。口の中に溶けていくクッキーが、どんどんしょっぱくなっていく。分量は間違えなかったはずだ。砂糖と塩も間違えていない。それに、目はどんどん熱くなっていくのに、頬は風に当たって凍り付くように冷たい。
自分が泣いていることを自覚したくなくて、目から溢れる液体を、何度も何度も手の甲で拭った。頬が痛くなるくらい擦ったけれど、一度堤を失った水は止まることを知らなくて、終いには子どものように声を上げて泣きじゃくった。道行く人が、皆私を見ている気がする。でも、感情を抑えることは出来なかった。
呼び出した先生の隣にいた、髪の長い綺麗な女の人。いくら私が恋愛対象外だからって、クリスマスの呼び出しに、恋人同伴で現れなくてもいいじゃない。先生のバカ。バカバカバカ。声に出して悪態をつくけれど、先生を嫌いになることなんて出来なかった。代わりに、生まれて初めての失恋という気持ちが、涙になって溢れてくる。
「ウタカタ先生のばかぁ!!!」
「誰がバカだ」
人目も気にせず大声で叫んだら、呆れた声を出した先生が立っていた。こんな小説みたいな展開は、一度きりで散々だから、驚いた顔を隠して先生を思いきり睨みつける。
「先生がバカだから、バカって言ったんです!」
「バカはお前の方だろう。人を呼び出しておいて何も言わずに帰るなんて、どんな性格をしているんだ」
ああ、もう嫌だ。先生がここまで嫌な性格をしているなんて思わなかった。見せつけるように並んで立っておいて、挙げ句の果てに私を悪者にしようとしているのか。
怒りと悲しみで声が出なくなって、口角を下げながらしゃっくりを繰り返す。先生がティッシュで涙を拭こうとしたけれど、それすらも拒んでその場に蹲った。こうなったら、とことん嫌な子になってやろう。自暴自棄になった恋する乙女は、どんな生き物よりも厄介なんだから。
「葛城、どうしたんだ」
「どうしたもこうしたもありません!先生なんて、早く彼女の所へ行っちゃえばいいんです!」
「は?」
「彼女」と改めて口にすると、引っこみはじめていた涙がまた流れ出してきた。人生最悪のクリスマスは、私を限りなく惨めにしていく。それなのに、先生は一言声を出したあと、しばらく黙ってしまって、それから何かを思い出したように笑い出した。
「はははっ、葛城、そういうことか」
「何が面白いんですかっ!!」
「さっきオレと話していた、髪の長い女のことを言っているんだろう。あれはただ道を聞かれただけだ。ったく、早とちりも大概にしろ」
苦笑しながら私を立たせる先生に、今度は私が間抜けた声を出してしまった。状況が飲み込めなくて突っ立っていると、頬にこびり付いていた涙を優しく拭われる。
「くっ、こんなに目ぇ腫らして、面白い顔だな」
「……ひどいです、せんせい」
「もしオレに彼女がいたら、今日の呼び出しに応えたりしない。それに、わざわざこうやって走って逃げ出すお前を追いかけたりしないだろう」
先生は笑いながら、私の頭を優しく叩いた。そのとき初めて、自分がとんでもない誤解をしていたことに気づく。
いたたまれなくなって、真っ赤になっていた目を両手で覆い隠した。今までの自分が、何だかすごく恥ずかしい。慌てる私を余所に、先生は可笑しくてたまらないというように笑い声を漏らしている。
「わ、笑わないで!!」
「そんなにオレに彼女がいたことがショックだったのか?」
「それは!……当たり前じゃないですか!私は先生のことが好きなんですから!」
大声でした告白に、すれ違う人たちが数人こちらを振り返った。私の自暴自棄は、まだ続いていたらしい。先生は目を丸くして固まっていたから、形振り構わずにその身体に抱きついた。分厚いコートのせいで、先生の感触がイマイチわからない。
追いついてきた自分の理性が、顔に熱を溜めていく。我に返って離れようとした頭を、先生が胸に押し当てた。呆気にとられて固まる私の上から、低い声が振ってくる。
「今日は冷えるな。これくらいが丁度いい」
「そ、……うですか?」
「オレは寒いのは苦手なんだ。それなのに、こんな夜に呼び出したんだから、何か用事があったんだろう?」
行動とちぐはぐな質問に、ぼんやりとクッキーの存在を思い出す。はっとして取り出した袋には、粉々の残骸しか残っていなかった。
「クッキー、あげようと思ったんですけれど、全部食べちゃいました」
「はぁ?」
「やけ食いです。ごめんなさい」
おそるおそる顔を見上げてみると、先生は心底呆れた表情をして私を見つめていた。怒られるかと思ったけれど、先生は私を抱いたまま、長く息を吐いて何かを呟いた。よく聞こえなくて聞き返そうとしたときに、身体を離されてタイミングを失ってしまう。
「なら、今度はちゃんとオレに渡せ」
「受け取ってくれるんですか?」
「あまり甘くなければな」
ふっと笑った先生に、今日起きた色んなことが、全てどうでもよくなってしまった。クリスマスの喧騒に紛れながら、先生が私の名前を呼んでくれる。差し出された手の平に、やけっぱちの告白の返事を見た気がした。その手をとって、道行く恋人達の中に溶け込んでいく。
サンタさん、今日が人生で1番最悪な日だったなんて、私の勘違いでした。小説の中の物語じゃない、現実での温かさに、頬が綻んでいく。流れる歌声が愛を囁いたとき、温かい指先が、そっと絡みついた。