鼻梁 -愛玩-
少し先を歩く師匠に追いついて、バレないように視線だけでその顔を見る。ああ、やっぱり格好いい。
涼やかな瞳、すっきりとした鼻筋、薄く形の整った唇。きっと師匠は、世間で言う「イケメン」なんだろう。今まではわからなかったけれど、師匠と旅を続けて、街行く人の反応を見てなんとなく気がついた。例えばさっき寄った甘味処の店員。師匠を見て頬を染めたあと、あからさまに隣に立つ私に嫉妬するような目を向けた。どうしてこんな小娘が、とでも言うような視線。
でも悲しいことに、私たちはそんな羨まれるような関係じゃない。師匠と弟子。それ以上でもそれ以下でもない。もちろんそれは私が望みに望んで手に入れた関係だし、そこに何の不満もない。——いや、なかった。ついこの間までは。
いつからだろうか、師匠のことを、男性として見てしまったのは。
きっかけは思い出せない、強いて言うなら出会ったときから……もうずっと前から私は師匠に恋をしていたのだろう。
恋。自分とは無縁だと思っていた、甘い胸の疼き。
子どもの頃に読んだおとぎ話に出てきた、格好いい王子様。いつか私もこんな素敵な人と結婚を、なんて考えたりもしたけれど、そこに恋をする過程は含まれていなかった。おとぎ話はいつだってすぐに両思いになれるけれど、現実はそうはいかない。師匠に見とれる女性たちに嫉妬される私は、キスは疎か、その手を握ることだってできない。
やだ、私ったら——キスだなんて。
生まれたときから砦の中にいた、師匠曰く箱入り娘の私には、恋愛経験はひとつもなかった。キスの味も、恋が実ったときの甘酸っぱさも知らない。唯一、片思いのほろ苦さは身を以て体験できている。楽しいけれど、心地の良いものではない。毎日歯がゆくて、じれったくて、けれど愛おしくて、気がつけば上の空の自分を何度となく戒めた。私は修行の身、色恋に現を抜かしている場合じゃない。
「何だ、ホタル。さっきから人の顔を睨みつけて」
よっぽど師匠の顔を見ていたのだろうか。足を止めた師匠が怪訝そうにこちらを見つめ返す。
「睨むだなんて!そんな失礼なことしていません!」
「じゃあ何だ。オレの顔にゴミでも付いているのか?」
「そうじゃなくって……」
あなたの顔があまりにも格好良くて、つい見とれていました。なんて言えるはずもなく。
それに師匠は、顔だけじゃなくて性格も格好いいのだ。それに強くて頭も良くて、優しくて面倒見も良くて……。
ああまた、思考が恋の病に呑まれていく。黙ったままの私にとうとう眉を顰めた師匠に、どうにか言い訳をしなくちゃいけない。
「し、師匠は……、……恋人とかいるのかなぁって」
「…………はぁ?」
「だ、だって!師匠ってその……女性に人気があるじゃないですか!さっきの甘味処の店員さんも、昨日泊まった宿の女将も、みーんな師匠に見とれていて……。だから、そんなにモテるのなら、恋人がいても不思議じゃないなって」
師匠の眉間の皺が、ますます深く刻まれる。その皺に比例するように、私の眉も下がっていく。
「お前……修行中にそんなこと考えてたのか」
「ごめんなさい!でも、どうしても気になって」
「あのな。こうやって四六時中弟子と旅をしている男に、どうやったら女がいると思うんだ。くだらないことを考える暇があったら、術のひとつでも会得したらどうだ」
完全に師匠の言うとおりです。返す言葉もございません。
不埒な自分を恥ながら、がっくり肩を落として項垂れる。これじゃあ師匠の恋人になるどころか、破門にされてしまう。それだけは絶対に避けたい。でも、どうしたらこのピンク色の思考から抜け出せるんだろう。遁兵衛にでも文を出して相談してみようか。……さすがにそれは、遁兵衛を困らせてしまうか。
「それともあれか?ホタルがオレの恋人になるか?」
へぇ!!?っと自分でも驚くほど間抜けな声が口から漏れる。当の師匠は涼しい顔をして、慌てる私に唇だけで笑みを返した。
「オレの周りにいる女は、ホタルしかいないんだ。オレに恋人を作りたいなら、ホタルが相手になるしかない」
「そ、れは……でも、あの……」
「丁度、その唯一の相手も色恋事で頭がいっぱいらしいからな。——ホタルがその気なら、オレも……」
言いながら、師匠の顔がゆっくりと近づいてくる。視界に広がる師匠の顔に、瞳孔が広がってそのまま倒れてしまいそうだった。熱い吐息が髪を揺らす。額の端まで上った血液が、顔中を赤く染めていくのがわかった。視界が完全に肌色になる寸前に、耐えきれなくてぎゅっと目を瞑る。
「……………え?」
その後に待っていた衝撃は、想像よりもずっと優しいものだった。何かが触れた鼻梁を触る私を、師匠がおかしそうに笑いながら見る。
「ホタル、まさか本気にしたのか?」
「師匠!もしかしてからかったんですか!!?」
「当たり前だろう。同意も無く弟子に手を出す師匠があるか。これに懲りたら、もう少し真剣に修行に打ち込むんだな」
笑いを堪えながら歩き出す師匠に、ひとり慌てていた自分が恥ずかしくなる。
「師匠!ひどいです!!」
「そんなに怒るなよ。ホタルがあまりにも初だからつい、な」
「子ども扱いしないでください!」
「悪かったよ。もう機嫌直せって」
そう言いながら愚図る子をあやすように叩かれた頭に、また頬を膨らました。やっぱり師匠は、私のことを何とも思っていない。けれど、唇の感触が残る鼻梁が、芽生えた恋心を一層深くする。
いつか修行の旅が終わって、私がもっと大人になったら、その余裕の笑みを崩してみせよう。そして、今度こそその唇に触れてみよう。
密かな決心を固めながら、未だ熱を持ったままの鼻をそっと撫でる。緩んでしまった口元は、今度こそ師匠にバレていないはず。