指先 -賞賛-
膝の上に広げていた巻物を閉まって、大きく背筋を伸ばした。昼下がりの空からは、傾き始めた日の光が微かに頬を温める。小春日和の天気に、読書から解放された瞼が重く垂れ下がった。目を擦り大きく欠伸をすれば、真抜けた自分の声が部屋に響く。横になりたい気持ちを抑えて、縁側へと足を運ぶ。小さな雀の番いが、手でも繋いでいるかのように、並んで空を飛び立った。「ホタル、修行の調子はどうだ」
池の上に立っていたホタルに声をかけると、ホタルは汗を拭いながらこちらを振り返った。小春日和と雖も、秋の日に汗を掻くとは、よほど頑張って修行をしていたらしい。水音を鳴らしながら池から上がるホタルに手ぬぐいを差しだし、地袋から茶を取り出した。縁側に腰掛けたホタルがそれを見て、慌てたように声を上げる。
「師匠、わざわざお茶を用意していただかなくても、自分でやりますから!」
「気にするな。お前も疲れているだろう。少しは師匠に甘えろ」
手ぬぐいで口元を隠し、申し訳なさそうに肩を竦めるホタルに、湯飲みを差し出す。雀の番いは、相変わらず肩を寄せ合い、木の枝に止まっていた。
「ありがとうございます。ウタカタ師匠」
「それで、術は会得出来たのか?」
「コツは掴めてきたので、あと少しできっと会得できますよ!今日中には必ず!」
胸の前で拳を作り、決心するように頷くホタルに、思わず笑いがこぼれた。オレの一番弟子は、諦めや逃げということを知らないらしい。
湯飲みに注いだ茶を啜り、ホタルに教えた術の巻物を開く。チャクラの形質変化とコントロールを併用した、決して容易ではない術だ。これを1日で会得されてしまっては、こちらの方が大変かもしれない。けれど、ホタルの根性と才能には度々驚かされることがある。さすが、土蜘蛛一族の末裔とでも言ったところか。オレの手から巻物を奪い、もう1度術の復習を始めるホタルを見つめながら、湯飲みを両手で包む。
「修行が楽しくて仕方がないって顔をしているな」
「はいっ!ウタカタ師匠から習う術は、どれも私の知らないことばかりです。師匠から教えてもらえることなら、私、きっと何でも楽しいです!」
無邪気に笑いながら、ホタルは巻物に顔を戻した。再び茶を啜りながら、ホタルの言葉を反芻する。箱入り娘だったホタルのこと、オレとの旅は、新しい発見の連続なのだろう。そんなことを思いながら、枝に止まった雀が嘴をつつき合っているのを見て、ふとひとつの考えが頭を過ぎった。それを試すため、茶碗を縁側に置き、ホタルの方へ向き直る。
「ホタル」
「何ですか?師匠」
「お手」
言いながら手の平を向けると、ホタルはぽかんとした表情のままこちらを見つめ返した。さすがにふざけすぎたかと視線を逸らすと、右手に温かい感触が重なった。
「えっと……、師匠、これは…………」
「……ははっ」
戸惑った表情のまま手の平を重ねるホタルに、声を出して笑った。当のホタルは、困惑したように眉を垂らしたまま、オレの顔を見つめている。一通り笑ったあと、空いていた左手で涙を拭い、微苦笑を浮かべながらホタルの頭を撫でた。
「ほんとにお前は……オレの言うことは何でも聞くんだな」
「私はウタカタ師匠の弟子ですから。……で、これは何の意味があるのです?」
「いや、少し思ったんだよ。オレと一緒にいるときのホタルは、犬みたいだってな。だから、試してみた」
重なった手の平を持ち上げると、ホタルは途端にむっとした表情になり、頬を膨らました。
「師匠、酷いですよ!人を犬呼ばわりするなんて!」
「悪い悪い。でもそうだろう。修行をしているときのお前、初めて散歩に行く子犬みたいな顔しているからな」
「しーしょーうー!!」
ますます頬を膨らませるホタルに、今度は左手を差し出すと、ぷいとそっぽを向かれた。けれど、手の平はしっかり重なっている。その様子がおかしくて、また口から笑いがこぼれた。それが気にくわないのか、ホタルは横目でオレを睨むと、頬を膨らましたまま唇を尖らす。
「忠犬ホタル、ってところか?」
「もうっ!そろそろ怒りますよ!」
「怒るなよ、ホタル」
離れようとしたホタルの手を掴み、自分の方へと引き寄せた。バランスを崩した身体が、すっぽりと腕の中に収まる。驚いたホタルの声に、雀の番いは鳴きながらどこかへ飛んでいった。ホタルが体勢を整える前に、素早く指先に口付けを落とす。
「ししょ……!!」
「言うことを聞いてくれたんだ。ちゃんとご褒美をあげないとな」
顔を近づけて笑顔を向けると、ホタルは林檎のように頬を赤くしてオレから身体を離した。頬の赤みは、耳の先まで伝染している。その様子に喉の奥で笑いながら、湯飲みを片しに立ち上がった。我に返ったホタルは、自分の指先とオレを交互に見つめ、口を大きく開閉している。
「ウタカタ師匠の、ばかっ!」
「なんだ、せっかく褒美をあげたのに」
「こんなことをされたら、修行に集中できません!!」
目を潤ませて、ホタルは池の方へと走っていった。少しやり過ぎたかと顎に手を当てるが、慌てたホタルの顔を思い出し、すぐに破顔する。眠気はいつの間にかなくなり、今は秋の陽気が心地良い。あの術を会得した後は、きちんとした褒美を与えてやろうと、池の方を振り返りながら思考を巡らす。知らぬ間に戻ってきた雀は、楽しそうに空を飛び回っていた。