背中 -確認-

 暗い夜の空に、満ちた月が煌々と光りを放つ。今日は静かに闇を感じていたいのに、月はそれを許さない。苛立ちを抑えるように、障子を閉めて光りを遮断した。振り返って部屋を見ると、そこに闇はなく、薄紫色が頼りなく辺りを染めていた。閉ざしたはずの月の光は、障子の向こうから、部屋の中へと土足で踏み込んでくる。
 その光に照らされながら、ホタルは俯いていた。膝を抱えるようにして布団に座る姿は、震えているようにも見える。出来ることなら、ホタルに光を与えたくなかった。何も見えない闇の中なら、傷も少しは癒えただろう。だが、月はホタルを許さなかった。
畳みに足を擦りつけながらホタルに近づき、丸まった背中を支えるように膝をつく。伸ばした指先は、ガラス細工を扱うときのように、爪の先まで力が入っていた。

「大丈夫だ、オレが傍に居る」

 両肩に手を置き、後ろから抱きしめながら囁くと、ホタルは微かに身体を強ばらせた。それに気づきながら、重なる身体の面積を、徐々に大きくする。頬を寄せた首元から、ホタルの脈拍が伝わってきた。そのリズムに合わせながら、ホタルの身体に手を這わしていく。
 掌が白い寝間着を擦り、ホタルの肌へと滑っていく。柔らかい皮膚からは温もりが伝わるが、指先は酷く冷えていた。それを温めるように指先を絡め、代わりに唇を使ってホタルを愛撫する。耳から頬へ、頬から首筋へ。体勢を変えてホタルの顔を見上げると、下瞼に溜まった涙が、零れることもせず、小刻みに揺れていた。部屋に差す月の光が、その涙に反射して、僅かな光芒を作っていた。宝石のような美しさに、思わず手を伸ばして指先で雫を救う。人差し指を辿った雫が、腕を伝い、ぽたりと布団に染みを作った。揺れた指先に、ホタルの吐息がかかる。

「怖いのか?」

 そう問いかけると、ホタルは力なく首を振った。返事とは反対に、ホタルはこれからする行為を避けるように、胸元を隠して自分を抱きしめるようにしている。オレの視線に気がついたのか、ホタルは腕を解いたが、代わりに髪で顔を隠すように俯いた。布団に落ちた手は、相変わらず震えている。

「怖いなら今のうちに言え。何も手籠めにしようとしているんじゃない」
「怖くなんてありません、大丈夫ですから……」
「どこが大丈夫なんだ。そんなに震えて、——無理をするんじゃない」
「無理なんてしていません!それなら、……それなら、ウタカタ様の方が、無理をしているに決まっています」

 ホタルは顔を上げ、今度こそはっきりと涙を流した。瞼と口元が歪み、それに合わせて雫が布団へと落ちていく。震えた指先が着物を掴み、肌を隠すように着物が引っ張られた。

「ウタカタ様は……私に同情しているのでしょう?私が哀れだから、恋人のようなことをしようとしてくれている。私にはもう、無理だと知っているから。こんな醜い身体じゃあ、私はこの先、女としての幸せなんて……」
「醜くなんてない」

 ホタルの言葉を遮り、震える身体を無理矢理腕の中に収めた。怒りと悲しみに似た悔しさが、腹の底から込み上げてくる。抵抗するホタルを制しながら、着物をはぎ取った。背中にかかっていた髪を掻き上げると、痛々しい禁術の封印が現れる。隠したかった。できることなら、この封印を闇の中へと葬り去り、ホタルの身体から消し去りたかった。けれど、オレにそんな力はない。一時の忘却さえ、月の光は許してくれなかった。
 背中に浮かぶ禁術を、傷つけないように掌で撫でる。ホタルは自身の両肩を支えながら、嗚咽を漏らしていた。その姿が痛々しくて、肩に置かれた手に掌を重ねながら、背中に唇を落としていった。冷たい肌の向こうから、確かにホタルの鼓動が伝わってくる。

「ホタル、お前は醜くなんてない。自分で望んだのだろう?一族を救うために、師匠のために」
「……はい」
「馬鹿だな、本当に。……オレたちはどうしようもなく、馬鹿だったんだ」

 胸の奥から湧き上がってくる気持ちは、同情と呼ぶにはあまりに苦しすぎた。詰まりそうな息を隠しながら、丹念に、愛おしむように、背中に舌を這わせていく。熱い舌が触れる度に、ホタルは小さく声を上げた。掌に重ねていた手を腰へと回し、荒くなっていく息づかいに従うように、ホタルを求めた。小さな口から漏れる声が、徐々に喘ぎ声に変わっていく。

「あぅ……!」
「ホタル、愛している」
「ウタカタ、さま…………」
「同情なんかじゃない。そんな言葉で、お前への気持ちが片付けられるか。ホタル、オレはここにいる。ホタルの傍にいるんだ。だから、何も考えるな。一族も、禁術も、全て忘れろ。オレのことだけを考えろ」

 赤い印が増えていく背中を撫でながら、ホタルの腰を掻き抱いた。着物を脱ぎ、素肌を合わせると、ホタルの熱が直に伝わってくる。こんなに人肌を恋しいと思ったのは初めてだった。再び背中への愛撫を始めながら、ホタルを膝の上へと乗せる。熱い息を吐き出すだけだったホタルが、腰に回していた手に指先を絡めた。振り返った顔には、柔らかい笑みが浮かんでいる。

「ウタカタ様……、愛しています」

 腰を捻りながら抱きついてきたホタルの唇が、オレのそれと重なる。絡まった指先を結び直せば、ホタルの瞼が穏やかに弧を描いた。

「ずっと、傍にいてくださいね」
「ああ」
「私も、ウタカタ様と共にいますから」

 月の光が、潤んだホタルの瞳に反射する。首に腕が回されたのを合図に、ゆっくりと布団に押し倒した。肌を重ね、身体中でお互いを確かめ合う。この行為が、何の慰めになるのか、オレにはわからない。けれど、確かにホタルはここにいる。オレの腕の中で、愛の言葉を紡ぐように、オレの名を呼んでいる。それだけで、オレたちは救われたことになるのだろう。
 月も、世界も、誰もがオレたちを許すことはないだろう。それでも、誰もオレたちを引き裂くことはできない。甘い息を吐きながら身体を震わせるホタルを抱き寄せ、肩越しに背中に口付けを落とす。障子の向こうで輝く月は、無表情で何を考えているのかわからない。それでよかった。オレにはホタルが、ホタルにはオレがいる。それでいい。それだけでいい。





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