待ってろ

 沖に浮かぶ浮輪に掴まりながら、ホタルは不貞腐れたように頬を膨らました。初めて訪れた、憧れの場所。瑠璃色の海は、絵本で見たどの色よりも透き通っていて、ホタルの心を弾ませた。白い砂浜に残る足跡、そこに彩りを与えるカニの親子。期待以上の風景に、潮の香り。それなのに、こんなにつまらないのは、

「ったく。泳げないならはじめからそう言えよ」

 海から顔を出し、浮輪に手をかけながらウタカタは言う。勢いよく海を走り、潜り込み、そして溺れたホタルを助けたウタカタの表情は呆れ気味。唇を尖らせるホタルをたしなめ、濡れて顔に張りついた髪をかき上げた。

「もう少しで死ぬとこだったんだぞ」
「でも……せっかく海に来たんだから、自由に泳ぎたいです」
「浮輪がないと沈むくせに何言ってんだ」

 ホタルを浮かせている浮輪に体重をかけ、少し沈ませる。慌てて悲鳴を上げるホタルに、ウタカタは楽しげに笑った。

「もう!ウタカタ様!!」
「悪い悪い。でも、そうだな。せっかく海に来たんだから、浮いてるだけじゃつまらないよな」

 眉を垂らすホタルを撫でながら、ウタカタは何か考えるように視線をあげた。数秒の間そうすると、視線をホタルに向け、頭を軽く叩き笑顔を見せる。

「ちょっと待ってろ。すぐ戻るから」
「ウタカタ様?」

 小さな飛沫を上げて海に潜るウタカタに首を傾げ、ホタルは空を見上げた。夏の日差しが素肌を焼きつける。ウタカタは暑いのが苦手なはずなのに、自分のわがままに海にまで連れてきてくれて。情けない自分の姿に、ホタルはまたため息を漏らす。同時に海から顔を出すウタカタ。

「ほら、手出せよ」
「——?なんですか?」

 ウタカタから差し出された白い貝殻に、ホタルは感嘆の声をあげた。めったに人が立ち入らない海の底だから存在する、濁りのない白。

「気に入ったか?」
「はい!こんな綺麗な貝殻……まるで人魚姫になった気分です」
「……人魚姫、か……」

 貝殻を太陽に透かし、微笑むホタルに、ウタカタは満足げに口角を上げた。水滴のついたホタルの白磁の肌が、光に反射して眩しい。

「泳ぎは明日教えてやるから、今日は宿に帰ろう。暑くて死にそうだ」
「はい。ウタカタ様、ありがとうございます。初めての海、とても感動しました」
「楽しかったか?」
「はい!」

 最高の笑顔を見せるホタルの手を引き、ウタカタはゆっくりと陸へ泳ぎはじめる。穏やかな波に合わせて聞こえるホタルの鼻歌が、人魚の歌のように海に響いた。





Thanks for 確かに恋だった