撫子模様に酔いしれませう

「あ、あの……」

 言葉を失うとは、まさにこのこと。薄く開いた口を閉じるのも忘れて、ホタルから目が離せなくなる。当のホタルは頬を赤らめて、惚けたオレの態度に顔を俯かせていた。

 処は旅先の宿屋。1日の修業を終えて体を休めるオレたち。事の始まりは、お節介な女将が言った一言だった。

「忍だか師弟だか知らないけど、年頃の女の子が毎日泥だらけじゃあもったいない。たまにはお洒落のひとつくらい、させてあげたらどうだい」

 せっせと修業に励み、休みなくオレの世話をするホタルに同情したらしい。だが、オレだって無理にホタルを連れているんじゃない。ホタルがオレについてくると望み、オレはその願いを受けとっただけだ。それをさもオレだけが悪いように言われるのは癪に障り、文句を言おうと口を開く。

「女将さん、お気になさらないでください。私は忍ですから、着飾る必要なんてないんです」

 オレが声を発する前に、澄んだホタルの声が言葉を遮った。健気とも言えるその様子に、ちくりと胸が痛む。
 気づいていないわけではない。旅先ですれ違う若い娘の煌びやかな着物や、店先に並ぶ色とりどりの簪に、ホタルの目が輝いていることを。けれど、オレたちは修業の身だ。必要以上の出費は避けたいし、ホタルもそれをわかってわがままは言わない。

「けれどねぇ……。あんただって憧れるだろう。忍だの言う前に、ひとりの女の子なんだから」

 納得のいかない様子の女将に、ホタルは笑顔で断りをいれる。
 少し絡まった髪に、擦り傷の目立つ肌。修業のときから着続けていた服は、女将の言うとおり泥だらけだ。惚れた女に、着物のひとつも着せてやれないなんて。どこかからそんな嫌味が聞こえてくる気がする。

「そんなに言うなら、ホタルを貸すから着せ替えてやればどうだ。今日の修業は終わったし、宿で休むだけだ。どんな格好になろうとかまわない」

 ホタルを説得しようと粘る女将に、視線だけ向けて横槍を入れる。その声に、女将の目は輝き、ホタルは驚いたように目を見開いていた。

「任せないさいよ。とびっきりの着物を用意してやるからね」

 嬉々としてホタルの手を引き部屋を出ていく女将を見たのが数分前。今その女将は、満足げな表情でオレたちを交互に眺めている。

「どうだい。忍装束よりこっちのが断然かわいいだろう。今日は酒もサービスしてやるから、少しは固いこと忘れて騒ぎな」

 入り口付近で小さくなるホタルの背中を押し、女将は鼻唄を歌いながら部屋を出ていった。そして冒頭に至る。惚けたオレの態度は、依然変わっていない。

「と、とりあえず座れ」
「はい……」

 着物の裾を押さえ、ゆっくりと膝を下ろす。その仕種に合わせて、シャラン、と簪が音をたてた。重なった視線に、心臓が跳ねる。

「あ……」
「やっぱり、似合いませんよね」
「え?」
「こんな綺麗な格好、私には不釣り合いです」

 撫子が描かれた袖を眺め、ホタルが悲しそうに眉を垂らした。謙遜にしては些かわざとらしすぎる。ホタルは本気で、不釣り合いだと思っているのだろうか。

「そんなことはない」
「え?」
「……思ったより似合っていない、こともない」

 一瞬目が大きく開き、艶やかに彩られた唇が、ゆっくりと三日月を描く。その動作に、また大きく心臓が跳ねた。

「ありがとうございます」

 妖艶な笑みを浮かべながら、ホタルは徳利を持ちゆっくりと酒を注いだ。姿だけ見ればまるで遊女の様。甘ったるい香りが、酒の匂いと共に鼻孔に広がる。

「せっかく女将さんが用意してくださった酒です。どうぞ」
「あ、ああ……」

 杯に注がれた少量の酒を飲み干しながら、ちらりと横目でホタルを見る。普段と違う格好に落ち着かないのか、まじまじと袖を見つめている。が、その顔はどこか嬉しそうだ。

「綺麗じゃねえか」
「え?」
「その撫子柄、あの女将も意外といい趣味してやがる」

 本当は撫子よりも綺麗なものがあるんだが。そんなことを考えながら、もう1杯を飲み干す。ただでさえ天の邪鬼なオレの性格。素面で女を、ホタルを褒めるなんてできるわけがない。
 酒を注ぐたびに近づく白い項に、勝手に視線が釘付けになる。普段は髪で隠れて見えないが、こう見ると……なかなか色っぽい。

「師匠?まだお飲みになるのですか?」
「ああ。せっかくこんな良い酒の肴があるんだ」
「さかな?」

 脳内を回るアルコールが心地好い。瞼が重くなり、オレを見つめるホタルの顔が二重にぶれた。

「ウ、ウタカタし……」
「ホタル、綺麗だな」
「へ……」
「撫子より何より、お前が綺麗だ。今日はずっとその格好でいろ。ただし、どこにも行くなよ。その姿を見ていいのはオレだけだ」

 饒舌に動く口にまかせ言葉を紡ぎ、ホタルをそっと押し倒した。酒の匂いとホタルの香りが混ざり、なんとも妖しい雰囲気を醸し出す。

「ウタカタさまっ!一体なに、を……」
「ホタル」

 柑子色の髪を指に絡め、翡翠の双眼に吸い込まれるように顔を近づける。頭が上手く回らない。本能のままに、ホタルを、この手で……。


***


「ふぅ。まったく、師匠ったら」

 呆れる私を余所に、師匠は気持ち良さそうに安らかな寝息をたてて寝ている――私の上で。

「私のドキドキ、返してくださいよ」

 普段はめったに言われない褒め言葉。着飾った私を見て、師匠は本当にそう思ってくれたのだろうか。酔っ払って出たデタラメだったら……かなり落ち込んじゃう。

「酔っ払うのはいいですけど、こんなふうに他の ひとの上で寝ちゃだめですよ」

 首筋の辺りにかかる息がくすぐったい。この調子だと、明日の修行はお預けかしら。
 大きなため息をついて、でも顔は笑いながら。師匠を起こさないように体を横にし、ゆっくりと抱きしめた。私を誑かした罰。朝まで私の傍にいてください。こんな師匠が見られるのは、私だけなんだから。