日暮れどきまで

「ホタル?おい、ホタルー?」

 広間へ続く長い廊下。いつもは仔犬のようにオレに纏わり付いてくるホタルの姿が見えない。遁兵衛が土蜘蛛の里へ帰った今、この広い家にはオレとホタルだけだ。なのにこの静粛、どこかに出かけたのか?

「ホタルー?いないのかー?」

 いい加減名前を呼ぶのにも飽きてきた頃、目の前の障子が開いていることに気づいた。そういえばまだここは見ていないな、と微かな希望を預け、障子に手をかける。

「ホタ、ル……」

 ああ、なるほど。どうりで返事がないわけだ。
 後ろ手で障子をゆっくりと閉め、足音をたてないようにホタルに近づく。

「こんなところで寝てたら風邪引くぞ」

 顔を覗き込むようにして声をかけても、ホタルはぐっすり夢の中。その様子に苦笑して、乱れていた髪を手櫛で解く。緩やかに指が髪を梳くと、ホタルの口元が気持ちよさげに綻んだ。

「……っと」

 夕食の時間まではまだ余裕がある。ぐっすりと寝入るホタルを起こさないよう気を使いながら、ホタルの頭を胡座をかいた自分の膝へと乗せた。真下に見えるホタルの寝顔に、自然と気持ちが穏やかになる。

「……夕食までの間に散歩でも行こうと思ったが、これでもまあ、いいな」

 幸せだなと、唐突に思う。ホタルの頭を撫でながら、障子越しに部屋に差し込む外の光を見つめた。うっすらと赤い、もう蜩が鳴き始める時間か。

「んん、う……」

 寝返りをうったホタルが、着物の裾をしっかりと掴んだ。まるで赤子のようなその仕草に、また笑みがこぼれる。

「ったく、らしくないな」

 この女の仕草ひとつひとつにこんなにやられるなんて。ずいぶんと丸くなった自分の性格に息をつき、遠くで鳴き始めた蜩の音に耳を澄ませる。この部屋が朱色に染まったら、ホタルを起こして夕飯にするか。久しぶりに2人で料理するのも悪くないな。
 もうすぐ訪れるホタルとの時間を想像しながら、もう1度部屋に差し込む光を見つめる。早く日が暮れてほしいような、そうでないような。膝を支配する心地好い重さに目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。