もう一度スキを聞かせてよ

 台所から聞こえる水の音が、目の前にあるテレビの音よりも大きく聞こえる。見る気もなくつけているだけだったテレビを消し、壁にかけてある時計を見た。時刻は8時23分。夕食を終えてほっと一息つく、いつもと変わらない時間。

「ウタカタ様、お風呂、先にどうぞ。私はあとでいいですから」

 顔だけこちらに出し、ホタルは笑顔で言う。そんなホタルに短く返事をし、たいして進んでいない時計を見つめる。耳に届くのは、秒針と皿を拭く布巾の音だけ。

「ウタカタ様?まだ入っていなかったんですか?」
「風呂はあとでいい。ホタルも少し休めよ」
「私はまだ……明日のためのお米も磨がないとですし、それに……」
「いいから、座れ」

 なかなか休もうとしないホタルの手を掴み、無理矢理椅子に座らせた。その時に触れた指先が想像以上に冷たく、あからさまに顔が不機嫌になったのが自分でもわかる。

「ウタカタ様……何を怒っているのですか?」
「別に、怒ってなどいない」
「でも、ここに皺が……」

 自分の眉間を指さし、ホタルは遠慮がちに言う。それに小さく舌打ちをし、未だに赤いホタルの手を握った。少しでも温度が移ればいい。

「ウタカタ様……」
「お前、今日が何の日か知ってるか」
「え……?」
「結婚記念日だよ。オレたちの」

 冷えた指先を撫でながら、自分のと同じ場所にある銀色を見つめた。あの頃よりは少しくすんだ、けれど変わらない証が確かにそこにある。

「普通女ってのは、そういう記念日が好きなんだろ?なのにお前は、何もねだらず何も言わず、いつもと同じように食事を作って洗濯をして、……もしかして忘れてたのか?」

 指輪から目を外しホタルを見ると、ホタルは少し微笑んで首を振った。そしてオレの手を握り返したあと、まっすぐにオレを見つめる。

「忘れるはずないじゃないですか。こんな大切な日なんですから」
「だったら、どうして何も言わない」
「今更ねだるものなんてないですよ」

 目線を外してそう言うと、両手を解いてオレの頬を包むように顔にそえる。「こっちのほうが温かいです」そう言って笑うホタルの手は、普段より少し熱かった。

「私はこうしてウタカタ様と一緒にいられるだけで幸せなんです。家事だって、ウタカタ様のためだと思えば辛くなんてありません」
「でもな……今日くらいわがまま言ったっていいんだぞ?いつもホタルには迷惑をかけてしまって……」
「迷惑なんて1度も思ったことありません。私、今ほんとうに幸せなんですよ?」

 満面の笑みでそう言うと、ホタルは両手を離して再びオレの手に触れた。人差し指で指輪をゆっくりなぞると、慈しむような眼差しでじっとそれを見つめる。

「ウタカタ様は今、幸せですか?」
「当たり前だろ」
「それなら私はもっと幸せです。うまく言えないんですけれど……ウタカタ様を愛してるから、きっとこんなに、幸せなんだろうなって」

 ホタルが再び視線をオレに向け、やわらかく微笑んだ。その言葉を聞いてオレも笑い、もうすっかり温かくなったホタルの手を握った。時計のベルが、短く時刻の変化を伝える。

「相変わらずだな。自分のことよりもオレのことを考えて」
「だって、ウタカタ様のことが大好きなんですもん」
「ははっ。……でもそうだな、オレも、ホタルが幸せなら幸せだ。ホタルのことを……愛しているからな」

 両手に力を込めると、ホタルがそれに答えて微笑んだ。普段言えない愛の言葉に、お互いに少し耳が赤くなる。しばらく見つめあったあと、ホタルの手を引き立ち上がった。

「もうこんな時間だ。風呂に入るぞ」
「一緒にですか?」
「久しぶりにいいだろう。それに、結婚記念日に家族が増えるのも悪くない」
「……もうっ、ウタカタ様ったら」

 腕に抱きついたホタルの顎を掴み、少し屈んで口付けをした。きっと今夜は、想像以上に甘い夜になる。溢れた気持ちは、全てホタルに伝えよう。繋がったこの熱が、一生消えぬよう。


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